教区の歴史

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東京韓人教会司牧訪問ミサ説教

2016年07月17日

2016年7月17日、年間第16主日

[聖書朗読箇所]

 説教

イエスの一行はエルサレムへ向う途中、ベタニアというところでマルタとマリアの姉妹の家にお泊りになりました。今日の福音の箇所のその時の話です。
イエスはマルタに言われました。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10・41-42)

このイエスの言葉はわたしたちにも向けられています。
ここでイエスが言う「ただ一つの必要なこと」とは何でしょうか。そしてわたしたちにとって「ただ一つの必要なこと」とは何でしょうか。
主はマルタに言われました。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」(ルカ10・41)
「多くのことで思い悩み、心を乱している」とはまさにこのわたし岡田の状態ではないか、と思います。心配ごとが絶えません。仕事のこと、人間関係のこと、持ち物のこと、そのほかの地上の問題でいつも心が塞がれているような状態です。これではいけないと心を上にあげるように努めています。
使徒ペトロも言っています。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです。」(一ペトロ5・7)

よく最近、『断捨離』という言葉を思い浮かべています。
わたしたちにとっていま必要で大切なこととは、この世界の現実にまつわる種々の思いを絶ち、執着を捨て、心を雑事から離して、心を上にあげる、ということではないか、と思います。これがつまり、「祈り」ということです。
それは同時に、神の言葉を聞くということです。神はいま何をわたしたちに語っているでしょうか。
そうはいっても、祈るとは現実から逃避することではありません。心の平安の中にこの現実をより善いものにし、世界をより平和な世界に変える努力が求められています。

そこで話は跳びますが、今日はことしの「平和旬間」の祈りを説明します。ことしの「平和のための祈り2016」を紹介します。

平和の源である父なる神よ
どうかわたしたちに
「平和を実現する人々」となる恵みをお与えください。
今年は特に、「フクシマ・オキナワ」の問題を学びます。
わたしたちが、この問題をよく理解し、その解決のために
力を合わせ、 知恵と勇気をもってともに働くことができますよう
聖霊を豊かに注いでください。
「この大地が、主を知る知識で満たされ、(イザヤ11・9参照)
すべての被造物が滅びへの隷属から解放され、(ローマ8・21参照)
国が国に向かって剣を上げず、
もはや争うことを学ばない(イザヤ2・4参照)」
という日の到来をわたしたちは心から待ち望んでいます。
わたしたちの主イエス・キリストによって、アーメン。

平和とは神の賜物、聖霊の恵みです。
平和とはまず心の平和です。それは罪の赦し、神との和解の結果です。
そしてさらに、心の平和は地上の平和となって実現しなければなりません。
聖書は、国と国との争いがなくなるだけでなく、生き物の間の争いも、動物同士の争いも消滅する日の到来を予言しています。動物が他の動物を襲って餌食にする、ということがなくなる日が来ます。

現代に日本では「沖縄の基地などの問題、そして福島の原子力発電所事故の問題が深刻です。これらの問題は何であるのか、まず学ぶ必要があります。
そしてまた、平和とはすべての被造物に及ぶべきものです。ローマ書の教えによれば、神はすべての被造物へと和解の恵みを及ぼし、この宇宙への神の支配を完成してくださるのです。わたしたちは、いつか、その日が来ることを信じ希望することができます。
この信仰と希望を新たにしてくださるよう聖霊に祈りましょう。

 

(以下に「平和のための祈り2016」の出典となっている聖書の引用箇所をしるします。)
―――
イザヤ11・6-9
狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。

ローマ8・18-24
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

イザヤ2・4-5
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。