受難の主日説教

 2016年3月20日、関口教会

[聖書朗読箇所]

説教

「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ23・47)

イエスの死の様子を一部始終目撃していた百人隊長の言葉です。異邦人の百人隊長はイエスのこの最後の様子に、非常に強い印象を持ち、こう言ったのです。

マタイとマルコの福音書では「本当に、この人は神の子だった」となっています。(マタイ27・54、マルコ15・39)

ある人がどんな人であるのかを知るためには、その人がどのような最後を迎えたのかを知ることが大切だと思います。イエスの受難と死は「イエスが誰であったのか」をわたしたちに語ります。

イエスは敵への愛を説きました。これは非常に実行困難と思われる教えです。教えた人が実行しなければその教えは説得力を欠きます。しかし、イエスは十字架の上でこの教えを実行したのです。イエスは自分を処刑する人のために祈って言いました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)

 

イエスはなぜ殺されなければならなかったのでしょうか。

イエスは安息日に病者や体の不自由な人の癒しを行いました。その行為は安息日の掟(第三回)を犯すものとされました。またイエスは自分を神に等しいものとしたとされ、冒涜の罪に問われたのです。

彼は嘲られ侮られ貶められ笑い者にされ、見るも惨めな状態で人生の最後を迎えました。人々はイエスを愚弄し、囃し立てました。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(ルカ23・35)

人間の受ける苦しみのなかに侮辱される苦しみがあります。侮られ辱められるという苦しみです。嘲られ馬鹿にされ、見下げられる、という苦しみがあります。

人間は自分の価値を傷つけられることに敏感です。人は少しでも自分に対する否定的な言動を受けると不快になり、怒り、憤りをおぼえるものです。

しかしキリストは「ののしられてもののしり返さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」(一ペトロ2・23)

今日の第二朗読でパウロは言っています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2・6-7)

神の子イエスは侮辱されても復讐せず、自分の栄誉のために、自分の栄光のために、自分の力を使いませんでした。多くの人を癒し奇跡を行い、多くの人にメシアの栄光を現したイエスですが、十字架の上でその力を行使することはなかったのです。

 

わたしたちこのような生き方を貫いたイエスを救い主として仰いでいます。それならわたしたちはどのようにイエスの教えを実行しているでしょうか。

自分を理解しないもの、自分を排斥し、自分に敵対する者のために祈っているでしょうか。些細な侮辱、失礼な言動に対して平和のうちに忍耐を保っているでしょうか。

主イエスに倣う謙虚で忍耐強い生き方を人々に示すことができますよう、祈りましょう。