四旬節第三主日説教

2013年3月3日 午前10時 関口教会にて

 

第一朗読 出エジプト3・1-8a,13-15

第二朗読 一コリント10・1-6,10-12

福音朗読 ルカ13・1-9

 

詩編のなかに、自分の嘆きを神に向かって注ぎだしている祈りがあります。

 「わたしの岩、わたしの神、

  どうしてわたしを忘れられたのか。

  どうしてわたしはしいたげられ、

  歎きのうちに歩むのか。

  昼も夜も、『神はどこに』と問われ、

  そのあざけりは骨身にこたえる。」

おそらく、作者は、エルサレムの神殿をはるか遠く望みながら、敵の嘲りに涙し、神に向かって悲痛な祈りをささげていたのでしょう。追放の身になっている作者に向かって彼に敵対するものが、「お前の神様はどうなっているのだ、今どうしているのか、どうしてお前をそのような目に合わせたままにしているのだ」などと言ってからかったに違いありません。

それでも作者は祈ります。

「わたしの心はなぜ、うちしずみ

嘆き苦しむのか。

神に希望をおき、賛美をささげよう、

わたしの救い、わたしの神に。」

今日の第一朗読は、モーセに神が現れ、名前を啓示した場面です。神はモーセに言われました。

「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト3・14)

「わたしはある」という意味は、ただ何もしないで存在している、という意味ではなく、苦しみ叫ぶ民を力あるみ手の業を持って救い出す神、力強い神、全能の神、という意味です。事実、神はモーセを遣わし、イスラエルをエジプトの奴隷の状態から解放したのでした。

しかしイスラエルの民は荒れ野において神の力を疑い、神を試し、神にそむいてしまいました。それでも神は預言者を遣わし、イスラエルの民の回心と悔い改めを求めました。神は悲痛な思いを持ってイスラエルの民に、自分へ立ち返るよう訴えています。

「ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。」(ホセア11・8-9)

今日のルカの福音は回心の実りを待ち望んでいる神の忍耐強さを述べていると思います。神は忍耐強くわたしたちの回心を待っています。イエス・キリストの十字架は父である神の人々の罪を赦す愛、忍耐強く人々の罪を見逃してくださっている神の愛を表しています。

わたしたちは自分の本当の姿を見ていません。自分の罪の状態とその結果をしみじみ深く知ることを怠っています。他方、神の深い愛に心を閉ざしています。

罪を悔い改める痛悔には二種類あると教会は教えています。

不完全な痛悔とは、自分の罪の醜さを知ること、神の罰への恐れから行う痛悔です。

完全な痛悔とは、神への愛に応えるために行う痛悔です。

不完全であっても心からの痛悔を行うよう、恵みを願いましょう。