教区の歴史

教区の歴史

「福音的使命を生きる」への意見書に対するプロジェクトチームの考え

2002年10月10日

 2002年10月10日
東京教区再編成プロジェクトチーム

 

「福音的使命を生きる・新しい一歩のための提案」について、各地域協力体や小教区から多くの意見をお寄せくださいましてありがとうございました。10月27日の教区集会では各地域協力体から1名の方に代表質問をしていただくことになっていますが、限られた時間内での議論を有意義なものにするため、指摘された問題についてプロジェクトチームとしての考えを示したのがこの文書です(なお、文中で大司教の考えとしてあるものは、すべて大司教に確認してあります)。ここで取り上げているご質問、ご意見は地域協力体や小教区から寄せられた意見書からできる限り拾い上げたものですが、漏れてしまった意見もあると思います。また、時間の都合で個人から寄せられた分までは検討できませんでしたが、今後の参考にさせていただきます。

 

なお、各地域の代表質問者のお名前と質問の要旨を10月23日(水)必着で、東京大司教館・幸田和生までお送りください。よろしくお願い申し上げます。

Eメール koda@tokyo.catholic.jp ファックス 03(3944)8511

 

 

Ⅰ、進め方について

 

(1) 進め方が速すぎる。もっと時間をかけるべきだ。そんなに強引にすすめるべきでない。

このようなご意見は複数ありました。速すぎるという印象をお持ちの方々が多い理由の一つには、教会の広報の難しさがあるでしょう(教会は広報がへただ、広報が足りない、という声はよく耳にします)。特に、日本の司教協議会や東京教区全体の動きはなかなか司祭・信徒に伝わらないのです。しかし、昨年の岡田大司教の「新しい一歩」は突然出てきたものではないことをまずご理解いただければと思います。

第1回福音宣教推進全国会議の答申(1987年)の中には「小教区制度の抜本的な見直しと再編成を検討する」という提案がありました。この問題については、全国会議を受けて発足した「制度を考えるチーム」(全国から選ばれた司祭が中心のチーム)が検討することになりました。制度を考えるチームは1994年の臨時司教総会に答申書を提出しました(1995年3月「明日に開く」という小冊子として発行)。この中で、近隣小教区間の協力や共同宣教司牧の導入が提案されています。これらの課題(小教区の問題)は、実際には各教区で取り組むことになりました。その後、東京教区でもこの問題が教区総会や宣教司牧評議会の中で取り上げられるようになりました。

東京教区では1970年の東京教区大会の後、ブロック会議が始まっていました。ブロック会議は、それまでバラバラだった小教区間の連携・協力をはかるのが目的でした。このことは「新しい一歩」「福音的使命を生きる」まで続いているテーマです。なお、ブロック会議は、1997年9月から「地域協力体」制度に移行しています。

1998年11月、白柳枢機卿は、宣教司牧評議会に「小教区の統廃合」について諮問しました。翌年の司祭研修会も「小教区の統廃合と司祭のあり方」(1999年10月)をテーマとして行われ、また、宣教司牧評議会は教区内の信徒を対象に、「新しい千年期の教会作りに向けてのアンケート」を行いました(1999年10~12月)。そして、2000年2月には「小教区の統廃合に関する司祭プロジェクトチーム」が発足しています。

このような前教区長時代からの動きを受けて、岡田大司教(2000年9月着座)は、   新たな「再編成プロジェクトチーム」を発足させ(2001年1月)、6月に「新しい一歩」を発表したわけです。

全国会議の提案から見れば15年も経っていますので、遅すぎるという声もあります。

実際、来年4月から始めようとしていることは、これまでの小教区制度の枠組みの中で、「宣教協力体」という形でこれまで以上に小教区間の協力を深めていこう、ということです。信徒の信仰生活に大きな影響を与えるようなことは慎重に進めるのが当然です。

また、第二段階への移行には時間をかけて準備を積み重ねていきます。この点については、Ⅳの①でくわしく説明いたします。

 

(2) これまでの刷新の試みとの関連はどうなのか。

   

「第一回福音宣教推進全国会議」

この全国会議に関する動きは、司教団が呼びかけた日本の教会の刷新運動でした。全国会議の成果がすぐに具体的に表れたわけではありませんが、だからあの会議は失敗だったとはいえません。今回の東京教区が行おうとしていることは①で述べた全国会議と制度を考えるチームの答申に、東京教区として今答えようとしているものです。

「ブロック会議と地域協力体」

ブロック会議が目指したものは、近隣小教区の協力でした。多摩ブロックの青少年活動や千葉ブロックの外国人司牧(レイミッショナリ)活動はその具体例でした。しかし、多くのブロックではなかなか協力が進みませんでした。その主な理由は、以下のことでした。

1) ブロック会議委員と小教区の教会委員会のメンバーが違っていてブロック会議と小教区の間の連携がうまく取れない。

2) 司祭の参加が少ないところでは会議の決定が実際の小教区の動きにつながらない。

3) 会議の内容が小教区の現場のニーズと結びついていない。

「地域協力体」はこれらの問題を乗り越えようとして導入されました。しかし、多くの地域では、地域協力体になっても司祭と信徒の代表が一同に会して話し合う場を持つことは困難でした。

今回の再編成の第一歩は「宣教協力体の発足」ですが、これはある意味で地域協力体と同じ考えです。ここでは宣教協力体の司祭団と信徒代表による「協議会」を提案しています。司祭と信徒が一緒に話し合う場を持つこと。これは新しい宣教協力体を実効的なものにするために絶対に必要なことです。これまでの地域協力体よりも小さな単位にして集まりやすくしたのはそのためです。

 

(3) 「新しい一歩」から「福音的使命を生きる」までの経緯を説明してほしい。昨年の意見はどう扱われたのか。

意見書はていねいに読ませていただきました。そこには、「よく理解できない」「もっと具体的なことを知りたい」という声が多くありましたので、個々の質問や意見にお答えする前に、「改革の意図と目的」、「具体的な内容」をできるだけ分かりやすく示すことが必要だと考えました。それが「福音的使命を生きる」です。これによって多くの点は明確にすることができたと考えています。もちろん、十分ではありません。そこで今回はこの文書のような形で、できる限り提起されている疑問・問題点に、個々に答えようとしています。

 

(4) プロジェクトチームに修道会司祭や信徒(特に女性)が加わっていない。

この改革は、再編成プロジェクトチームだけで進めているのではありません。さまざまな形で信徒の意見、修道会司祭の意見を聞く場を設けています。再編成に関する懇談会や財政小委員会には男女の信徒・女子修道者に参加していただいています。司祭評議会には修道会の司祭が含まれています。

大司教は教区司祭・宣教会司祭だけでプロジェクトチームを編成すればよいと考えていたのではありません。しかし、適当な信徒の人選は難しく、司教は司祭だけを指名することになりました。何人かの修道会司祭には参加をお願いしましたが、参加していただくことはできませんでした。修道会司祭としては、「個人としてプロジェクトチームに参加できない、まず教区としての方針を示し、その上で修道会の管区長に協力を要請してほしい、そこから協力したい」というのがその理由でした。

この改革の目的の一つは、男女の信徒が参加できる教会、教区と修道会が協力し合える教会を作ることですが、現状はまだそれができにくいということ、だからこそ改革が必要だということもご理解ください。

 

(5) 反対意見が多いのに改革を断行するのか、できるのか。

地域や小教区によって差がありますが、決して反対が多いとは思っていません。岡田大司教の方針自体は支持されていると判断しています。岡田大司教の方針とは、要約すれば以下のことです。

1) 従来の小教区制度には、良い点もあるが、さまざまな点で限界に突き当たっている。まず、これまで以上に小教区間の協力関係を深めていく。

2) ゆくゆくは、小教区(主任司祭)の数を減らしていきたい。それによって、東京教区が教区として行うべき使命に取り組む司祭を確保し、司祭それぞれの個性を生かすことを可能にする。また、それが信徒の自立、教会活動への積極的な参加を促すことにもなる。

「福音的使命を生きる」の提案は、大司教の教区長としての方針をどう具体化するかの提案です。もちろん、指摘された問題はなんとか解決しなければなりませんし、生かすべき提案は生かさなければなりませんが、基本的にはこの大司教の方針に沿って考えていただきたいのです。

 

(6) いっせいにやらずに、ある地域をモデルケースとして始めたほうがよい。

「小教区間の協力」というテーマは全小教区で取り組んでいただきたいテーマです。2003年から始めようとしているのは、これまでの「協力体」という考えをさらに一歩進めようとしていることで、決して無理なことをやろうとしているのではありません。新しい協力関係の中で、それぞれの地域での課題に取り組んでいっていただきたい、と思います。

 

(7) 直接、担当者がすべての小教区をまわるべきだった。

そのとおりだと考えます。しかし実際に再編成プロジェクト専任の司祭は1名しかおらず、プロジェクトチームの他の司祭は小教区主任司祭と兼任していますのでとてもすべての小教区を訪問して説明することはできませんでした。この改革は少しずつすすめるものですから、今後はこれまで以上に積極的にそれぞれの小教区・地域に出向いての説明と対話を続けます。なお、岡田大司教は就任以来、小教区の司牧訪問を続けています。これも改革の理解を得るための大切な場であると認識しています。

 

 

Ⅱ、なぜ制度改革なのか

(1) 改革の理由(福音的使命の危機)と制度改革(小教区の再編成)の関連が見えない。現行の制度の中でも改革はできるのではないか。

これまでの小教区のあり方に限界があり、それをなんとかするためには小教区のあり方を変えるしかないということです。

  1. 小教区の司祭人事だけに縛られずに、教区としてやるべきこと(福音的使命)に司祭の人材をあてたい。
  2. 小教区の、司祭中心の人間関係による弊害をなくしたい。
  3. 小教区間の協力がしにくい今の制度を変えたい。
  4. 内輪のニーズが優先しがちな司牧体制を変えたい。
  5. 司祭が一人で働くという限界を乗り越えたい。

もちろん、制度を変えれば、福音的使命が果たせるようになるとは考えていません。それから先の歩みが大切なのは言うまでもありません。

 

(2) 改革に精力を注ぐよりも、もっと具体的にやるべきことをやればよい(たとえばホームレスの宿舎を作る、など)

具体的な行動の必要性は分かります。しかし、本当に教会が神の愛のしるしとして生きるために何をすべきかを見いだすために、どうしてもこの改革が必要だと考えています。司教だけの考えで何かを始めても、小教区の司祭・信徒の善意だけで始めても結局は教会の活動として続かないのです。

教区として(司教として)はこれに取り組みたい、ということをはっきり打ち出しました(3つの優先課題)。それぞれの宣教協力体でも、司祭・信徒が一緒になって具体的な課題を見いだしていただきたいのです。

 

 

Ⅲ、改革の真の意図や理由についての疑問

(1) 結局、司祭の高齢化や司祭の減少の問題ではないのか。

司祭の高齢化や司祭の減少が問題でないといっているのではありません。しかし、司祭の減少は問題の現象面にすぎない、とプロジェクトチームでは考えています。本当の問題はもっと深いところにあると思います。現代社会の中で司祭として生きることが素晴らしいこと、本当にやりがいのあること、人生を賭けるに値するものと感じられているか、ということです。そこが問われなければ、召命のための運動も充分な成果を上げることはできないでしょう。また、「独身男性だけが司祭になれる」という制約を緩和すればよいという意見もありますが、その議論の是非はともかく、数の問題の解決のためにそういわれるのであれば、それは違うといわざるを得ません。「これまで小教区司牧に携わってこなかった修道会司祭に小教区で働いてもらう」というのも、数の問題の解決のためならば修道会司祭のアイデンティティを失わせるだけでしょう。

 

(2) 結局は財政問題ではないのか。

確かに不安定な収益会計からの補填に頼っている教区の財政状況は健全とはいえません。しかしこのことと小教区再編成は直接関係ありません。また東京教区は小教区会計をすべて教区会計に吸い上げてしまうというようなことも考えていません。さらに言えば、修道会の持っている財産に手をつけようなどという考えもありません。

教会が福音的使命を果たしていくために、教区としてすべきことがあります。このためには財政的な裏づけも必要です。また、東京教区には豊かな小教区もあれば貧しい小教区もあります(もちろん、日本全国・世界を見ればもっと深刻な格差があります)。その意味で、もし「自分の教会さえ成り立っていればいい」という考えがあるとすれば、それは乗り越えなければならないと思います。

 

(3) 中央管理体制を目指しているのか。

そうではありません。むしろ、これまで直接教区長に持ち込まれていた多くの問題の解決を「宣教協力体」の司祭・信徒のチームにゆだねたいと考えているのです。教区として取り組もうとしていることははっきりと示してありますが、それも現場の教会での働きを支え補うことがその使命です。CTICはそのよい例ですが、各小教区で充分対応できない外国人の問題や外国人司牧を教区としてサポートしようとしているのです。信徒の養成や心のサポートも基本的に同じように考えています。

 

 

Ⅳ、第二段階の意味について

(1) 大きな教会同士が組むことの意味はどこにあるのか。

巨大な小教区をさらに大きくするのは無意味だ、というご意見はもっともです。これについては、「福音的使命を生きる」で不明確な表現があったことをお詫びして、訂正する必要があると考えています。9ページ下にある「準備の整ったところから、あるいは差し迫った必要のあるところから順次移行していきます」という表現ですと「宣教協力体が遅かれ早かれ例外なく自動的に1小教区になっていく」と聞こえて当然です。「第一段階での協力を深める中で一つの小教区になる可能性を模索していく。そして準備の整ったところ、差し迫った必要のあるところから順次移行していく」と理解していただきたいと思います。この段階での編成の見直しやさまざまな例外はありうると考えています。

この第二段階を提示したのは、教区全体を見渡せば主任司祭の定住していない小教区もすでに存在するという状況がある中で、次の段階への移行を具体的に考える必要性を感じたからです。

「修道会の大きな教会は他と組まなくてもやっていける」というご意見もありました。ただ近隣小教区とのこれまで以上の協力という点に関してはすべての小教区に取り組んでほしいテーマですので、第一段階の「宣教協力体」の編成では「1教会単独」という例外を作りませんでした。

 

 

Ⅴ、さまざまな不安に対して

(1) 小さい教会はつぶされてしまうのか。

すべての聖堂共同体が将来も存続していくとは保証できません。しかし、この再編成はたとえ司祭が常駐しなくなっても、聖堂共同体は残るということを強調しています。つまり、司祭数が減って実際に司祭不在になっても、それだから教会がなくなるということではないのです。

 

(2) ミサはどうなるのか

大司教は主日のミサを大切にしています。できる限り各聖堂共同体で主日のミサが行われるよう最大限の努力はしていきますし、当面はほとんどの聖堂でそれが可能だと考えています。ただ、東京教区でもすでに司式司祭を確保するためにミサの時間を変更した教会があります。東京教区はまだ恵まれていますが、日本(や世界)の多くの地域では司祭が不足して、主日のミサが毎週行えなくなっているところもあります。将来的には、ミサのないときの集会祭儀についても準備をしておく必要があると考えています。

 

(3) 財政はどうなるのか

宣教協力体での活動の費用、特に司祭の活動経費は、それぞれの協力体で負担する必要があります。そのために共通の会計を作るなどの合意が必要でしょう。基本的には宣教協力体内で適当な方法を見出していっていただきたいのですが、「何が活動経費にあたるか」など、教区全体でのガイドラインも必要であると考え、現在そのガイドライン作りの準備をしています。

第二段階への移行とそれに伴う会計の一本化については、できるところではやっていっていただきたいと思いますが、あくまで各聖堂共同体間の合意が得られてからということになります。

 

(4) 「自分の教会を維持管理していく」という意識がなくなっては困る(献金が減る)。

確かに大司教にもプロジェクトチームにもこの心配があります。しかし、「自分の教会を維持管理していく」という考えだけでは将来的に教区全体はうまく機能できなくなると考えています。教会への帰属意識や献金の意味についての啓発活動が必要です。

 

(5) 司祭の指導や司祭と信徒とのつながりが希薄になるのはまずい。これまでの小教区の温かみ(家族的交流)はどうなるのか。堅苦しい教会になってしまう。信徒一人一人に対する霊的ケアが不足し、教会離れになる。

司祭との親しい交わりはこれまでの小教区の魅力として多くの人が指摘する点です。しかし、小教区での人間関係があまりにも司祭中心になってしまうと、司祭と合わない人は教会に来られなくなる、という不幸なことも起こります。また、大きな教会では司祭が大勢の信徒と個人的な親しさを持つことは実際に不可能です。霊的ケアについても本当に豊かな霊的指導を受けている人は少数でしょう。

このような現実を考えたとき、これからは今まで以上に信徒同士が互いに支えあい、励ましあって、信仰生活を豊かにしていくことが必要になります。

 

(6) 突然教会を人が訪ねても、誰もいないというのはまずい。

司祭が定住している、ということの良さは突然教会を訪ねてくる人がいても対応できるということで、これは素晴らしいことでした。実際に司祭が定住しない教会ができればその良さは失われます。これには今後、さまざまな工夫・対策が必要になるでしょう。

ただ、これは主に司祭数の減少の問題で、再編成そのものの問題ではありません。なおまた、来年から宣教協力体の司祭が一ヶ所に住むことになる、と考えないでください。「新しい一歩」や「福音的使命を生きる」の提案は、司祭の共同生活を勧めてはいません。大切なのは宣教司牧活動の上でのチームワークだと考えています。

 

(7) 修道会同士、修道会司祭と教区司祭で本当に一緒にやれるのか。修道会の個性、カリスマが弱まるのではないか。

それぞれの修道会によって、あるいは修道会と教区では司祭の養成もちがいますし、それぞれに個性があります。多様性はカトリック教会の豊かさの表れです。お互いに違いがあるからといって、一緒に働けない(チームを組めない)とは思えません。とりわけ、東京教区で宣教司牧をしていくという点に立てば協力していくのは当然でしょう。

それぞれの修道会がどこも独自に小教区を担当し、修道司祭が(ある程度)教区司祭化してしまうよりも、司牧チームの中で一緒に働きながらそれぞれのカリスマを生かすほうが、本来のあり方に近づけると考えています。

なお、(6)でも述べましたように、司祭がチームで働くということは宣教協力体司祭チームの共同生活を意味するのではありません。修道院での修道者の共同生活を決して否定していないことをご理解ください。

 

(8) 修道会財産についてどうなるのか。

教区が修道会の資産を奪うつもりはありません。教区として修道会委託教会にお願いしたいことは、できる限り小教区会計と修道院会計を分離してほしいということです。この場合、小教区が使っている修道院聖堂(および他の施設)の維持管理費用を小教区が適切に負担するのは当然です。

 

(9) 司祭がこのような意識改革についていけるか

2000年の司祭集会でこの問題が取り上げられたとき、さまざまな意見が出されましたが、大多数の司祭は「小教区の現状はこのままではいけない。改革せざるを得ない」という共通の見解を表しました。多くの司祭は自分たちの司祭職のあり方が変わることの必要性は感じています。しかし、チームで働くことを苦手とする司祭がいることも事実ですので、そのような司祭を生かすような人事面での配慮は必要になるでしょう。司祭の意識改革については、Ⅶの(3)でまた述べます。

 

(10) 世話役司祭の資質が問われる、チームで一貫した司牧ができるか。世話役司祭に過大な負担がかかるのではないか。

これはチームワークのあり方にかかっています。「チームで働くことの利点」を最大限見いだしていくことが必要です。

 

(11) 改革推進派と保守派に分かれての対立が起こらないか。改革についてくることのできない人がいて、教会離れを起こすのではないか。

そうならないとは言い切れません。教会のあり方について対話しつづけること、過大な要求をすべての人に押し付けないことが大切です。

 

(12) 会議が増えることによる一部の信徒の負担増。催しに参加するための負担増。

聖堂共同体での委員会に加えて宣教協力体の協議会(仮称)が加われば、会議が増えることは避けられません。それぞれの会議の意味や必要性を明確にし、会議の内容や進め方を適切にしていくことが大切です。

「催し」に関しては、すべてを合同でやらなければならない、と考えないでいただきたいと思います。合同黙想会にせよ合同堅信式にせよ、合同で行うことの意味を見極め、高齢者や体の弱い方への配慮をしていくことは当然のことです。

 

 

Ⅴ、宣教協力体編成案の考え方について

(1) なぜ交通の便を優先しているのか。

「新しい一歩」では「現行の地域協力体を活用する・・・9つの地域協力体をさらに分割して・・・20くらいの協力体として再編成」と述べられていますが、昨年の地域協力体から提出された意見の中にはこれまでの地域協力体の枠を越えたほうが協力しやすい場合があるという意見もありました。そこで現行の地域協力体を絶対視せず、これからの協力のしやすさを第一に考えて「福音的使命を生きる」18~19ページの編成案を作成しました。

この編成案は、できる限り各地域・小教区からの意見を尊重しようとして作りましたが、全体のバランスのため、すべてが要望どおりとはなりませんでした。

 

(2) 大きな教会にとって他と組むことの意味はなんなのか、修道会の大きな教会はそこだけでもやっていける。

大きくて人的にも物質的にも余裕のある教会には、小さな教会を助けていただきたいと思います。しかし、再編成の目的は、余裕のある教会が余裕のない教会を助けるということだけではありません。小教区がそれだけで完結した教会単位である、という意識を転換したいのです。近隣小教区との連携を持ち、教区全体の中で活動しているのだということは、すべての小教区の信徒・司祭に受け取ってほしいことです。宣教協力体の編成案で「大教会は単独」という例外を設けなかったのはそのためです。

しかし、ある教会は、そこにすでにさまざまな共同体(外国人共同体など)が含まれており、実質的に「宣教協力体」になっている、という指摘もあります。最終的にはⅣの①でも述べたように、機械的・自動的に第二段階の小教区になっていくとは考えていません。

 

 

Ⅵ、宣教協力体編成案の代案について

宣教協力体編成案についてさまざまなご意見・ご要望がありました。地域協力体や小教区単位で出された意見・要望にはできる限り配慮すべきだと考えました。すべてが要望どおりというわけにはいきませんが、いくつかの要望を取り上げた第二案を作成しました(組み合わせに変更のあった個所だけ下線をつけてあります)。これが決定というわけではありません。なお、不都合な点があればお知らせください。

 

1. 赤羽、本郷、関口、志村

2. 神田、麹町、築地、大島

3. 葛西、潮見、市川、小岩

4. 足立、梅田、三河島、町屋

5. 浅草、本所、上野

6. 豊四季、松戸、亀有

7. 赤堤、世田谷、初台、松原

8. 三軒茶屋、瀬田、渋谷

9. 喜多見、成城、町田

10.大森、蒲田、洗足

11.麻布、高輪、目黒

12.田園調布、上野毛、碑文谷

13.秋津、清瀬、小平、関町

14+15.下井草、徳田、板橋、北町、豊島

16.荻窪、吉祥寺、高円寺

17.多摩、調布、府中

18.あきる野、青梅、小金井、立川

19.高幡、豊田、八王子、泉町

20.鴨川、木更津、五井、館山

21.千葉寺、東金、西千葉、茂原

22.佐原、銚子、習志野、成田

 

「松戸、豊四季、成田」という豊四季教会の要望はそのままでは生かせませんでした。提案理由にある千葉ニュータウンの宣教司牧に関しては、一宣教協力体の課題であるよりも、周辺の聖堂共同体と教区が取り組んでいくべきことと考えました。

「神田、築地」「麹町単独」という中央地域協力体の提案もそのままでは採用していません。「豊四季、松戸」もそうですが、新たな小教区間の協力を始めるにあたって、やはり2教会だけの組み合わせはできれば避けたい、また、単独の例外を設けるべきではない、と考えたからです。

3と14+15などは他の小教区の要望によって、このような組み合わせになりましたが、組み合わせとしては不自然ではないと感じております。

 

 

Ⅶ、3つの優先課題について

(1) 他にも取り組むべきことがある。高齢者の問題、平和の問題、など。

教会が取り組むべきことが他にないとは考えていません。高齢化の問題は大きな問題です。しかしこれが「教区で取り組む優先課題」として取り上げられていないのは、地域社会で取り組むことが大切であり、むしろ各地域で、行政や福祉・ボランティア団体との連携の中で進めるべきことだと考えられるからです。

平和、人権、教育など他にも教会として取り組むべき大切な問題があります。しかし、すべてに手を広げるのではなく、差し迫っていること、できることからやっていく、というのがこの3つの優先課題なのです。

 

(2) 「福音的使命に携わる信徒の養成」というが、「携わる」のは信徒全員ではないか。

特別な奉仕者だけの養成を考えているのではなく、信者全員の養成を考えています。養成という言葉ではうまく表せないのですが、「すべての信徒がより豊かな信仰生活を送るためのプログラム」が必要です。すでにあるプログラムを活用することも含めて、教区としての指針が必要です。また「そのような信仰生活を支える共同体づくりのあり方」についても教区としての方向性を示すことが必要です。その上に立って、はじめて意味のある「共同体の奉仕者の養成」を行うことができると考えています。もちろん今はまだ確立していません。養成のあり方への取り組みはこれから始めていくことになります。

 

(3) 司祭の養成はどうなっているのか。信徒の養成より司祭の養成(意識改革)が問題ではないか。

 

この声は多くのところで聞かれました。確かにわたしたち司祭の意識改革が必要です。これまでも司祭研修会などで司祭自身のあり方について話し合い、考えてきましたし、今後もそのような司祭の研修は続ける必要があります。しかし、どんな研修会にもまさる意識改革のチャンスがあるのではないでしょうか。新しい課題(司祭同士のチームワーク、信徒とのチームワーク)にチャレンジし、新しい体験をする中でわたしたち司祭の意識は変えられていく、とプロジェクトチームでは考えています。

 

(4) なぜ外国人を優先するのか、日本人でも困っている人は多い。

 日本人を優先するか、外国人を優先するか、の問題ではありません。東京教区(東京都と千葉県)には日本人信徒とほぼ同数の外国人信徒がいると言われています。「教会の中ではだれも外国人ではありません」(ヨハネ・パウロⅡ世教皇のことば)から、この方々への司牧は東京教区の教会の責任です。この問題については、すでに、1997年5月18日付の「人間への共感をバネとして-外国人の司牧に関する司教教書」で東京教区の方針がはっきりしています(東京教区のホームページ参照)。

 

(5) 外国人司牧については外国から司祭を招聘すべきだ。

日本人の教区司祭が外国人の司牧とサポートをするには限界があります。すでに日本にいる宣教会・修道会の外国人司祭にお願いするのは当然ですが、外国から司祭を招いてその国の方々の司牧をしていただく、ということも具体的に始めようとしています。とはいえ、ただタガログ語やスペイン語ができればいいということではなく、日本の社会の中に生きる外国人のために働くには日本語の習得が必要です。時間もかかりますし、きちんとした教区としてのプランが必要です。またこの点については修道会の協力も欠かせません。

一方、外国人のことは外国人に任せるという姿勢では足りません。多国籍化する日本の教会の司牧を考えて、教区の神学生や若い司祭を海外で研修させることも必要だと考えています。

 

(6) 外国人の問題はミサだけの問題ではない。

おっしゃるとおりです。「福音的使命を生きる」12~13ページには、主にミサのことが語られていますが、それは一つの課題にすぎません。生活上の問題もありますし、司牧についてももっと幅広い総合的な観点が必要です。

日本に生活する外国人の司牧全般に関する指針の作成はすでにカトリック東京国際センターを中心に始められています。特に片親が外国人である子ども、日本語しか知らない子どもの信仰教育の問題は非常に大きな問題です。それはもはや外国人の問題ではなく、日本人(日本語)の教会共同体の問題でもあります。

 

(7) 心のサポートは専門家にまかせればいい。心のサポートは、素人がへたにかかわるととんでもないことになる。

「福音的使命を生きる」13~14ページに書きましたが、教区が医療機関を持ち、司祭が医者やカウンセラーになることを考えているのではありません。

おそらく、身近にこの問題を経験していない方には分かりにくいと思いますが、家族や友人の問題として感じてくださった方からは、教会がこのような働きをすることへの強い期待も寄せられています。

何が教会にできることか、何が教会としてすべきことか、は専門家の意見を聞きながら慎重に見極めることが必要です。

 

 

Ⅷ、おわりに

この他にも、多くのご意見をいただきました。疑問や批判だけでなく、大きな期待や前向きな提案も数多くありました。それらの期待や提案には今後なんとかして答えていきたいと思いますが、時間的な制約のためここでは紹介できませんでした。まず、疑問や批判にお答えするのが先だと考えたからです。もちろん、以上述べたことで、すべての疑問・批判にお答えできたとは考えていません。特に締切り日を過ぎてから送られてきたご意見には今回はお答えできませんでした。

この文書を教区集会に向けての準備資料としてお役立ていただければ幸いです。

 

(文責・幸田和生)