大司教
週刊大司教第二百七十一回:年間第二十七主日
2026年10月05日

10月4日はアシジの聖フランシスコの祝日ですが、今年は日曜日と重なりました。今年の10月4日は年間第27主日です。
メッセージでも触れていますが、10月4日をもって、9月1日から始まった「すべてのいのちを守る月間」が終わりとなりました。とはいえ、ともに暮らす家を護り豊かにする勤めは終わりませんから、今後も、「ラウダート・シ」の精神を具体化する取り組みを続けていきましょう。
9月30日と10月1日、日本の司教団は潮見のカトリック会館に集まり、特別臨時司教総会を行いました。潮見の日本カトリック会館の建物は、現在リニューアル工事中で、1階から3階までが使えませんので、会議はお隣りの潮見教会の信徒会館を拝借して行われました。
現在日本には、教区司教などの役職を退いた司教を除いて、15教区に17名の司教がおります。司教は司祭と同じく叙階ですから、役職を降りても終身で司教です。叙階されて司教であることと、どこかの教区の教区司教(または教区長とも呼んでいます)であることはイコールではありません。教会の中には、引退されている司教様を含め、教皇大使やバチカンの役所などで働く司教もおられます。現在日本の司教協議会を構成しているのは、現役の教区司教と補佐司教であり、その17名が潮見に集まりました。
今回は議決する事項が一つしかなかったので(詳細は中央協議会からの発表をご覧ください)、それ以外の時間を十分に使い、日本の教会における福音宣教と司牧の様々な課題について、意見交換を致しました。また数年前から関係者と話し合いながら計画を練り上げ、今年の2月の司教総会で決定した、新しい委員会体制が、秘書や委員の任命によって、9月から正式に始まりました。司教だけによって構成される、社会司教委員会、福音宣教司教委員会、広報司教委員会のもとに、秘書や委員を広くお願いする様々な委員会が置かれています。どんな委員会が、それぞれ三つの司教委員会の元にあるかは、こちらをご覧ください。これ以外にも、常任司教委員会の元に置かれた委員会や、事業体としてのカリタスジャパンもあります。
この諸委員会の司教と秘書の合同会議も、一日目の午後に行われました。中央で企画し実施する諸委員会の事業に、全国から協力者に集まって実行していただくという上から下への体制から、各教区や小教区が中心になって行う取り組みを、中央から支援し支える形の委員会制度に変えていこうとしています。シノドスの歩みの成果の一つとしての考え方の転換です。主役は教区であり小教区であり、それに仕える司教協議会の諸委員会と口で言うのは簡単ですが、実現するには様々な工夫と知恵と、特に時間が必要です。
以下、3日午後6時配信、週刊大司教第271回、年間第27主日のメッセージです。
年間第27主日
週刊大司教第271回
2026年10月04日前晩
マタイ福音は、ぶどう園を農夫たちに任せる家の主人のたとえ話が記されています。あたかもぶどう園が既得権益であるかのようにあぐらをかき、忠実に務めを果たすことのない農夫たちから、「季節ごとに収穫を納める他の農夫」に任せるだろうと記されています。
もちろんこのたとえ話が語られた背景には、神から選ばれた民という立場にあぐらをかき、救いはすでに約束されているとして、実際には神の思いに従うことのない民の存在があります。それに対してイエスは、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と述べることで、神の救いの福音は一部の選ばれた人だけのものではなく、全世界のすべての民に宣べ伝えられなくてはならないという、神の救いの計画を明示します。
教会は本日10月4日をもって、9月初めから続いた「すべてのいのちを守る月間」を終わります。もちろんこの月間が終わったからと言って、教皇フランシスコが「ラウダート・シ」で呼びかけたことが終わるわけではありません。
教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」に、いのちに関わる三つのかかわりとして、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」をあげた上で、こう記しています。「聖書によれば、いのちに関わるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です(66)」
その上で教皇は、「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の調和が乱されました。このことによって、わたしたちに賦与された、地を従わせ、そこを耕し、守るという統治の任にゆがみが生じたのです」と記します。
まさしくあの農夫たちと同じように、わたしたちは任せられた務め、すなわち、神が創造されてわたしたちに「地を従わせ、そこを耕し、守る」という任務を与えられたにもかかわらず、わたしたち人類は、それを、あたかも既得権益のように浪費し搾取し、神から与えられた務めを忠実には果たしてこなかったのだと、教皇フランシスコは指摘されました。
そのことを教皇は、はっきりとこう記します。「今日では、わたしたちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けなければなりません(67)。」
第一の朗読でイザヤは、ぶどうを植えたものの、よい実を得ることが出来なかったことへの、神の憤りを記しています。
「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか。わたしはよいぶどうがなるのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」
さまざまな紆余曲折を経てわたしたちの人生の歩みを導かれる神は、まさしくぶどうを植え、その管理を任せられた神です。よい実がなることを待っておられる神です。神はなすべきことでしなかったことは、何一つありません。残されているのは、植えられたものが、これからどのような実りを生み出すかであります。わたしたちは、神からの問いかけに、どのように答えているのでしょうか。