大司教

週刊大司教第二百六十七回:年間第二十三主日

2026年09月07日

8月いっぱいお休みさせていただいた週刊大司教は、今回から再開します。これまでも常時、3回分ほどは事前に撮影してストックしてきたのですが、枢機卿を拝命して以来、不在にすることが多く、お休みさせていただくこともまれにあるかと思います。

8月は国際カリタスの緊急な要務のためローマに数日だけ出かけざるを得なかったり、一年前から引き受けていた香港での一週間の黙想指導などがあり、その合間に、広島でも平和行事、東京での平和旬間、聖母被昇天祭などの重要な国内行事もありましたので、大変にバタバタしておりました。

香港では神言会の台湾・香港の会員27名ほどの黙想指導で貴重な霊的な体験をわたし自身がさせていただきました。香港とマカオは神言会の中国管区の一部分で、現在の管区長は台湾におられます。黙想の家は、日本では白百合学園を運営しているシャルトルの聖パウロ修道女会のシスターによって運営されており、香港の裏手側、深圳との境(国が同じなので国境ではないですが、国境に近い取り扱い)に位置しており、深圳の町並みを望むことができる場所でした。黙想会は英語で行いました。私にとって一週間の黙想会でお話しするのは、人生で二回目の経験です。短い講話ならばいくらでも経験がありますが、一週間の黙想指導には、やはりそれなりの経験と霊性の深さが必要だなと感じさせられました。

またこの黙想会終了後、金曜日の午後には、マカオで働いている神言会員に連れられて車で長大な連絡橋を渡り、お隣のマカオを訪問し、日本の殉教者の聖遺物のおかれている、あの正面の壁だけが残っている聖パウロ教会で、数多くの殉教者の聖遺物の前でお祈りさせていただきました。

またその翌日土曜日には、朝から香港の空港の近くにある水の上に広がる大澳村を、青年たちと一緒に訪れてミサを捧げ、対話集会を行う機会も頂きました。集まっていたのは、英語を話す青年達で、出身も多様な文化圏でした。その中には、学校で日本語を学んでいるという青年も複数おり、英語と日本語が飛び交う不思議な雰囲気でした。

さらに、8月16日と23日には、香港市内の教会で英語で主日ミサを捧げさせていただいたり、23日にはそのミサ後に、今度は香港日本人会でのミサを捧げさせていただいたりと、多くの出会いがあったことに感謝しています。

以下、5日午後6時配信、週刊大司教第267回、年間第23主日のメッセージです。

年間第23主日
週刊大司教第267回
2026年9月06日前晩

今年の夏は、天候が不順で、非常に暑い地域もあれば、繰り返し台風の被害を受けた地域も少なくありません。また日本では熊本をはじめ世界各地で頻発した地震もありました。被害を受けられた皆さまにお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。

同時に、教皇様がこの夏の間の一般謁見やアンジェラスの祈りの時に繰り返されたように、世界各地で戦争や紛争が継続し、神からの賜物であるいのちが暴力にさらされています。いのちに対する暴力はゆるされず、神の似姿としての人間の尊厳をないがしろにしてはならないと、神を信じるわたしたちは改めて強調したいと思います。暴力を肯定する口実を探すのはやめましょう。

本日の第二朗読でパウロはローマ人の手紙に、「その他どんな掟があったも、隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません」と記しています。その相互の愛の絆によって、わたしたちはそれぞれ異なっていても、一つにつながれており、ともに暮らす家においていのちを生きることで、一つの共同体を作り上げています。

9月1日は被造物を大切にする世界祈願日であり、日本の教会は、9月1日から10月4日、アシジの聖フランシスコの祝日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めています。

世界的に気候変動の影響が語られ、その原因が様々に取り沙汰される中で、2015年、教皇フランシスコは「ラウダート・シ」を発表されました。副題は、「ともに暮らす家を大切に」とされています。広く環境問題に取り組むことが、神が創造され、人類にその管理を託された自然界を、養い育てる責務を果たすことにつながり、それは信仰上の責務でもあると強調されました。

教皇フランシスコが強調されたエコロジーへの配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めようとかいう単独の課題への取り組みのことにとどまりません。それは、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に、ひとり一人が真摯に向き合い、答えを見いだそうとすることに他なりません。

マタイ福音は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と記し、主の名によって集められたわたしたちの共同体には、主御自身が常に存在されていることを明示します。

この主御自身の存在によって結び合わされたわたしたちは、感謝の祭儀に与ることで、朗読される御言葉のうちに現存される主と出会い、ご聖体の秘跡のうちに現存される主をいただきます。

わたしたちを結び合わせる掟の中心にある「隣人愛」とは一体何なのでしょうか。「自分のように愛する」とは一体どういうことでしょう。それはただひたするに優しくすることでもなければ、自分の思いを押しつけることでもありません。それは、自分自身が生きて行くことを肯定しているのと同じように、交わる他者がいのちを生きていくことを肯定する態度であります。生きるための希望は、互いに支え合う交わりの絆を確認するところから生み出されます。すなわち連帯こそが、生きる希望を生み出します。そこに隣人愛の根本があります。

ともに暮らす家を大切にすることも、互いのいのちを守ることなのですから、まさしくエコロジカルな取り組みは隣人愛の行動であります。