大司教
週刊大司教第二百六十二回:年間第十三主日
2026年06月29日

年間第13主日となりました。まもなく6月も終わりです。
教皇様は臨時の枢機卿会を招集されましたので、わたしは昨日の金曜日と本日の土曜日、その枢機卿会に出席のため、ローマにおります。また明日の日曜日には、アフリカ、南米、アジアの司教協議会連盟の会議が一日中予定されており、さらに月曜日には、教皇様が司式される聖ペトロ・パウロのミサに枢機卿団は参加することになっています。そのためまだ数日ローマに滞在しております。

ローマは熱波に襲われており、日中の気温は40度近くまで上がる日が続いています。枢機卿会はグループセッション(霊における会話)のため、参加している180名ほどの枢機卿は11人くらいずつで丸テーブルに分かれていますが、その場所を確保するために、あの広いパウロ六世謁見ホールの前四分の一位を使っています。一応冷房はあるものの、非常にマイルドな冷房で(確かソーラーエナジーを使っているはず)、さすがにこれはということで、最初のセッション以外は、黒スータンに赤い帯ではなくて、普通の半袖ローマンカラーシャツでもよいことになりました。高齢の枢機卿も多いので(枢機卿会には80歳以上もすべて参加する権利があるので)、熱中症で倒れる枢機卿が出ないように祈るばかりです。

枢機卿会の詳細は後日に。
以下、27日午後6時配信、週刊大司教第262回、年間第13主日のメッセージです。
年間第13主日
週刊大司教第262回
2026年6月28日前晩
マタイ福音は、イエスに従うと宣言するわたしたちが、人生の歩みにおいて何を大切にしているのかを問いかけます。
もちろんわたしたちは、目の前に苦しみと安楽が選択肢としてあるのであれば、安楽な道を選択してしまう誘惑の中で生きています。
教皇ベネディクト十六世は、回勅『希望による救い』のなかで、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(『希望による救い』39)」と記し、人生の歩みにおける苦しみの意味を記しています。
苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神ご自身が十字架の上で、わたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。
教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。わたしたちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。すなわち安楽な道ではなく、苦しみの道を歩み続ける責務があります。
同時に、福音に記された、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という主イエスの言葉の意味は、単に苦しみを求めているというよりも、さらに深いところへとわたしたちを導きます。そもそも「自分の十字架」とは一体なんでしょうか。あえて苦行を耐え忍ぶことでしょうか。
マタイ福音に記されたこの言葉は、わたしたちが主にふさわしいものとなるための条件としての十字架です。それは受け身的に苦しみを耐え忍ぶことにとどまらず、積極的に前向きな行動を促す言葉でもあります。
パウロはローマの教会への手紙に、「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」と記しています。主御自身の死と復活をもたらしたその中心には、十字架が存在します。すなわち、わたしたちは、十字架を通じて主の死にあずかり、主とともに新しいいのちに生きるものとされます。十字架は、すべての人を救いへと招こうとされる、主の愛といつくしみを具体的にあかしする、栄光と希望を指し示す存在です。
その栄光と希望は、神がご自分が創造された人間の命を愛するがあまり、自ら十字架の苦しみに歩みを進め、その苦しみを通じてわたしたちすべてに救いの道を開かれた、目に見える具体的な愛の証しであります。つまり、十字架は、自分のために苦しみことではなく、愛の証しを具体的な行動を持って行うための苦しみであります。
わたしたちが神からよしとされるのは、神の愛といつくしみをいただいて、自らそれを積極的に証しする行動を選択したときです。十字架をあかしするものとなりましょう