大司教

週刊大司教第百六十三回:復活節第四主日

2024年04月23日

アドリミナで、わたしもアンドレア司教様もローマに滞在中の4月11日、東京教区司祭団の最長老である澤田和夫神父様が帰天されたとの連絡を受けました。104歳と高齢であり、この数年は介護施設で暮らしておられたものの、教区での様々な機会には車椅子で出席されたり、もう危ないと言われながら何度も神父様特有の自然体でそれを乗り越えてこられた澤田神父様でした。

わたしがわざわざ語ることもないほど、多くの方に霊的な影響を与え、人生の友となり、語り尽くせぬほどの様々なエピソードを残された偉大な司祭が、一世紀を超える人生の歩みを終え、御父の元へ戻られました。

葬儀は、わたしが帰国した翌日、4月18日の午後1時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂をいっぱいに埋めた多くの方の参列の中で、執り行いました。アドリミナ後にふるさとに戻られていたアンドレア司教様も、当日の朝に帰国され、葬儀ミサに出席されました。ミサの説教は、洗足教会の山根神父様が、様々な思い出を語りながら担当してくださいました。

40年ほど前、まだわたしが神学生であった頃、名古屋の神言会の神学院でも、霊性神学の講義を担当していただいておりました。夜行の高速バスで東京からおいでになり、あのいつもの姿に長靴で、早朝に神学院の中をそろそろと歩かれているのを見て、澤田神父様を存じ上げない若い神学生が、不審者が侵入したと勘違いして大騒ぎになったことを懐かしく思いだしました。常に主の現存の前に身をかがめ、ご自分のスタイルを貫き、名声を求めず、淡々と語られる偉大な司祭でした。澤田神父様のこれまでのお働きに感謝しながら、御父が豊かに報いを与え、その御許で永遠の安息を与えてくださることを祈ります。

以下、20日午後6時配信、週刊大司教第163回、復活節第四主日のメッセージ原稿です。
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復活節第四主日
週刊大司教第163回
2024年4月21日前晩

復活節第四主日は、善き牧者の主日です。ヨハネ福音には、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という主イエスの言葉が記されています。

主が羊飼いなのですから、彼に従っているわたしたちはその羊飼いに導かれる羊の群れであります。羊飼いと羊の関係というと、羊飼いが先頭に立って羊の群れを導いている姿を想像しますが、実際の羊飼いは、群れの先頭に立つというよりも、少し離れた場所から、時には後ろから、常に見守り、時には正しい方向へ進むようにと追い立てる存在です。

教会における牧者のイメージも、ともすると先頭に立って、「私についてこい」と群れを導く姿を想起しますが、主イエスの語る牧者は、ご自分が賜物としていのちを与えられたわたしたちを、ご自分の羊、ご自分の一部として心にかけ、傍らから見守る存在です。しかもご自分の羊たちを愛するがあまり、その羊のために命をかけるとまで宣言されます。その上で、イエスは、「ひとりの羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことが最終的な目的であるとして、誰ひとり排除することなく、賜物としていのちを与えたすべての人を、自らの群れに取り込むことが神の望みであることを明示します。

良い羊飼いである主イエスは、「私は自分の羊を知っている」といわれ、同時に「羊も私を知っている」と断言されています。果たしてわたしたちは、主を知っているでしょうか。どこで主と出会ったでしょうか。日々の生活の中で出会う人、とりわけいのちの危機に直面している人、人間の尊厳をないがしろにされている人、忘れ去られている人のうちにこそ、主はおられます。

教会はこの復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りを捧げる日としています。東京教区では、この主日の午後、教区の一粒会が主催して、東京カテドラル聖マリア大聖堂で召命祈願ミサが捧げられます。

召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまりません。キリスト者すべての召命についても考える必要があります。司祭・修道者の召命のために祈ることは重要ですが、同時に信徒の召命が生かされるように祈ることも重要です。

わたしたちは就職活動や求職活動のように、召命を人間が生み出すことはできません。それは神からの賜物です。召命は、神からの呼びかけです。あの日、ガリラヤ湖の湖畔で、イエスご自身が声をかけられたように、徹頭徹尾、神からの一方的な呼びかけです。主イエスは、常に呼びかけておられます。私たちに必要なのは、その呼びかけに耳を傾け、前向きに応える勇気を、多くの人が持つことができるよう、祈りをもって励ますことであります。ですから祈りましょう。召命が増えるようにではなくて、主からの呼びかけに応える勇気を持つ人が増えるように祈りましょう。

呼びかけておられる善き牧者、主イエスと出会いましょう。わたしたちは教会共同体の中で、ミサにともに集う中で、告げられる御言葉のうちで、生け贄として捧げられる御聖体のうちに、そこにおられる主と出会います。困難に直面する人、忘れられた人、助けを必要とする人との関わりの中で、小さな人々の一人ひとりのうちにおられる主と、出会います。主はいつも呼びかけておられます。