大司教
週刊大司教第百六十一回:受難の主日
2024年03月25日
受難の主日となりました。復活祭に向けた聖週間の始まりです。
この復活徹夜祭や復活の主日に洗礼を受けられるみなさん。最終の準備の一週間です。特に聖木曜日に記念する主の晩餐、聖金曜日に記念する主の受難と死、そして墓に収められた主と共に沈黙のうちに復活の喜びを待ち望む聖土曜日。この聖なる三日間を経て、復活の喜びに至るために、復活徹夜祭は、暗闇に輝く小さな光で始まります。闇に輝くいのちの希望の光を私たちは主から受け継ぎます。
この一週間、主とともに歩みましょう。
以下、23日午後6時配信、受難の主日の週刊大司教第161回目、メッセージ原稿です。なお週刊大司教ビデオでの福音は、枝の行列前に朗読されるエルサレム入城を朗読しています。
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受難の主日(枝の主日)
週刊大司教第161回
2024年3月24日前晩
捕らえられたイエスを目の前にして問いかけるピラトに対して、集まった人々は「十字架につけろ」と盛んに激しく繰り返し叫んだと、福音の受難の朗読には記されています。
「十字架につけろ」。なんとわかりやすい短い叫びでしょう。その場に集まった人々は興奮していました。興奮した心に入り込み、それを捉えるのは、わかりやすく短いキャッチフレーズです。「十字架につける」という簡単明瞭な叫びは、瞬く間に人々の興奮した心を捉え、大きなうねりとなっていきました。
興奮状態の渦の中で、理性的な思考が顧みられることはありません。どんな理性的な言葉も興奮した人々を落ち着かせることはできないという現実に直面したとき、ピラトは、抵抗することをやめてしまいます。大きな興奮のうねりに身を任せ、犯罪者を釈放し、神の子を十字架につけて殺すために手渡しました。
受難の主日には、二つの福音が朗読されます。最初に朗読されるのは、イエスを喜びの声を持ってエルサレムに迎えた群衆の姿が記されていました。その同じ群衆は、数日後に、イエスを賛美し喜んでエルサレムに迎え入れたことなど忘れ去って、「十字架につけろ」と叫びました。興奮の渦は、理性的な判断をかき消してしまいます。
「群衆」という存在は、自分自身の頭を使って責任を持って判断をすることを停止した人々です。目の前に展開する大きな波の興奮にただただ身を任せ、喜んでみたり悲しんでみたりと、流されるだけの存在です。なぜ自分がそう叫んでいるのか、その理由を考えることはありません。なぜなら手間のかかる面倒なことだからです。そこにひとりの人の、いのちがかかっていることに、気がつこうともしません。
その日、「十字架につけろ」と叫んでいる群衆一人ひとりに、仮にインタビューができたとしたら、どうでしょう。「イエスに死んでほしいなんて、そんなことは自分は思ってもいない」などという、無責任な返事がかえって来るのかも知れません。みんなの興奮に同調して叫んだ言葉への責任など、誰が感じるでしょう。
今の時代のコミュニケーションでは、時として、短い言葉の投げ合いになり、興奮状態の中で、理性的な判断が見過ごされてしまう事例を目の当たりにすることがあります。
時として、自分の感情を隠さずに直接表すような、短いけれども激しい言葉が飛び交っている様を、ネット上に目撃することがあります。短い言葉のやりとりは,時として、無責任な言葉の投げつけあいに発展します。じっくりと考え練り上げた内容ではなくて、「十字架につけろ」と同じように、直感的にわかりやすく、興奮をもたらします。だから深く考えることもなく、送信してしまいます。
その言葉は、いのちを生かす言葉でしょうか。それとも、救い主を十字架につけて殺害したような、いのちを奪う言葉でしょうか。
聖週間が始まります。あの日のイエスの出来事にこの一週間心を馳せながら、自分はどこに立っているのか、何を叫んでいるのか、振り返ってみたいと思います。