大司教

週刊大司教第百六十回 四旬節第五主日

2024年03月18日

四旬節も終わりに近づき、第五主日となりました。

今週の初め、3月11日は、東日本大震災が発生して13年目でした。この節目の時に、あらためて東北の地に思いを馳せ、亡くなられた多くの方の永遠の安息を祈り、復興の道を歩み続ける東北の地と人々に、いのちの与え主である神の祝福と守りがあるように、祈ります。

この数日、私はローマに出かけていました。月曜日に司祭評議会と責任役員会を終えた後、羽田からローマに出発し、予定では、この週刊大司教が配信される頃に、羽田に帰国しているはずです。国際カリタスの要務ですが、ローマでの出来事は、また後ほど報告します。

不在の間、教区の修道会協議会や、司教団のERST(緊急対応支援チーム)による、東京教区での緊急対応のワークショップ、そして宣教司牧評議会があり、司教総代理であるアンドレア司教様が中心となって、これらを切り盛りしてくださいました。

東京カテドラル聖マリア大聖堂から、毎週日曜日、10時の関口教会主日ミサが配信されてきました。これは、コロナ感染症の制約の中で、一人でも多くの方の信仰の支えとなるために始めました。もちろん教会で共にミサに与り、ご聖体を拝領することが一番大切なのですが、どうしても諸事情でそれが適わない方々も多くおられましたので、関口教会の信徒の方々の積極的な協力と活動によって、ネットでの配信が続けられてきました。このたび、そういった状況も改善してきたということで、ネットでの配信を大司教や補佐司教が司式するミサや教区行事ミサに限定することになり、配信元も、関口教会のYoutubeアカウントから、週刊大司教を配信している東京教区のアカウントに変更となることになりました。

私は、大体月に一度は主日ミサを関口で司式しますし、その他、聖週間を始め、教区行事も多々あります。これらの配信については、その都度、教区からお知らせいたしますので、今後はその目的を教区共同体の一致のためとして、ご覧いただければと思います。

以下、16日午後6時配信、週刊大司教第160回目、四旬節第5主日のメッセージです。
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四旬節第五主日
週刊大司教第160回
2024年3月17日前晩

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」

いったい、わたしたち人間は何のためにいのちを生きるのかを、あらためて考えさせられる、主イエスの言葉です。

わたしたちは、いのちは神から与えられた尊い賜物であると信じています。この賜物であるいのちを、わたしたちは人生の中でどのように生きるのかが問われています。

一粒のままで終わる人生の道を歩むのか、多くの実を結ぶ人生を歩むのか。「地に落ちて死ぬ」とは、具体的にどういう人生を現しているのでしょうか。

自分の周りに壁を打ち立て、まるで自分だけを守るようにして隣人の必要を顧みずに生きる姿勢を、教皇フランシスコは、教皇就任直後の2013年に地中海に浮かぶランペドゥーザ島に押し寄せる難民たちを訪ねたときに、「虚しく輝くシャボン玉」の中に閉じこもっていると表現しました。その上で教皇は、シャボン玉の外にある叫びに耳を塞いでいる姿勢が世界中に蔓延している状況を、「無関心のグローバル化」と呼び、殻を打ち破って、弱い立場にある人の叫びに耳を傾けるようにと呼びかけられました。結局、わたしたちが自分のいのちだけを守ろうとするとき、または自分に近しい人たちのいのちだけを守ろうとするとき、その麦の種は、実を結ぶことなく朽ちていくことでしょう。しかし自分の欲望をうち捨て、虚しい虚飾の壁を打ち破り、そのシャボン玉の外へと目と耳を向けたときに、いまの自分のあり方に終止符を打って、多くの人に生きる希望を生み出す実りとなることが可能となります。

しかしその人生は、決して楽な歩みを保証するものではありません。主御自身の人生の歩みを見れば、それは明らかです。困難の連続です。

パウロはヘブライ人への手紙で、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全なものとなられた」と記しています。すなわち、神の目にあって完全なものとなるためには、自らの立場から降り立ち、苦しみを耐え忍びながら、神の意志に従順であることが絶対条件であると、パウロは強調します。

わたしたちの信仰の先達には、この日本において、迫害の時代に、いのちの尊厳を守り、互いに助け合うことにいのちがけで取り組み、その苦しみの人生を通じて、神が求められる生き方を証しした殉教者たちが多数おられます。

殉教者たちの、いのちを賭したあかしの勇気ある決断は、突然なされたわけでも、思い詰めての性急な判断でもありません。その決断は、キリスト者が、生涯をかけて信仰を真摯に生き抜いた結果としてある決断です。すべてをうち捨てて、神から与えられたいのちをよりふさわしく従順に生きるものととしての使命を生き抜いた結果としての決断です。いのちを生きる意味を突き詰め、困難に直面しながら証しを続けてきたからこそ、最後の最後で、殉教への決断につながったのです。わたしたちは、いまのように自分を中心にした生き方をうち捨て、他者に希望をもたらすものでありたいと思います。