大司教

週刊大司教第百十八回:四旬節第四主日

2023年03月20日

四旬節も第四主日となりました。

学校などの年度末の季節でもありますから、叙階式が各地で行われています。東京においては、先週の土曜日がイエズス会でお二人の助祭が誕生し(下の写真)、次の火曜日3月21日には、東京教区が二名、コンベンツアル会が二名、レデンプトール会が一名、パウロ会が一名と、六名の司祭が東京カテドラル聖マリア大聖堂で誕生する予定です。叙階式の模様は、いつものようにカトリック関口教会のyoutubeチャンネルから配信されますので、お祈りください。

また、わたしの出身母体でもある神言修道会も、本日土曜日に名古屋で司祭と助祭の叙階式が行われ、二名の司祭と三名の助祭が誕生しました。助祭のうちの一人、ファビオ神学生は、関口教会で一年間司牧実習をされたことがありました。また司祭叙階を受けた傍島神父様は、神学生時代にガーナで海外研修をされました。後に続く神学生が誕生するように、皆様のお祈りをお願いいたします。

本日、土曜日の午後には、東京教区の宣教司牧評議会の定例会がケルンホールで開催され、各宣教協力体からの代表が参加されました。今回は特に安房・上総宣教協力体から千葉県の教会に焦点を当て、また京葉宣教協力体から葛西教会の滞日外国人とのかかわりに焦点を当てて、お話をしていただき、それに基づいて、小グループでの分かち合いを行いました。

以下、18日午後6 時配信の週刊大司教第118回、四旬節第四主日のメッセージ原稿です。
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四旬節第四主日A
週刊大司教第118回
2023年3月19日前晩

ヨハネ福音は、イエスが安息日にシロアムの池で、生まれつき目の見えない人の視力を回復するという奇跡を行った話を記しています。

この物語には、「見える」と言うことについて二つの側面が記されています。それは、実際に目で見ることと心の目で見ることの違いです。

それを象徴しているのは、今日の福音の終わりに記されている、目が見えるようになった人とイエスとの会話です。視力を回復した人には当然イエスの姿が見えていますが、それでもなおその人は、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」とイエスに問いかけます。目の前に神の子は立っているにもかかわらず、見えても見えないのです。その心に向かってイエスは語りかけます。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。

心の目を開かれたこの人は、「主よ信じます」と信仰を告白します。

見えているのに見えない状態とはどのようなことなのか。福音はその少し前に、ファリサイ派の人たちと視力を回復した人とのやりとりを記しています。奇跡的出来事が起こったからこそ、この人を呼び出したにもかかわらず、ファリサイ派の人たちは、自分たちが作り出した枠を通してしか物事を見ることができていません。その枠からはみ出すものは、存在しないのです。ですから逆に、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と、いまの言葉で言えば逆ギレしたかのように裁きます。わたしたちは、自分の価値観に基づいた枠を作り出し、それを通じてのみ現実を知ろうとします。

同様なことがサムエル記に記されています。ダビデの選びです。預言者サムエルに、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と神は語りかけます。

今年の四旬節メッセージでシノドスの歩みに触れた教皇様は、こう記されています。

「四旬節のためのもう一つの道しるべです。それは、現実と、そこにある日々の労苦、厳しさ、矛盾と向き合うことを恐れて、日常と懸け離れた催しや、うっとりするような体験から成る宗教心に逃げ込んではならない、ということです」

人間の思いが生み出した枠を通じてのみ現実を見つめることも、また、宗教に逃げ込むことにつながります。わたしたちは、心に語りかける主の声に耳を傾け、枠を捨てて主ご自身をまっすぐに見つめるように招かれる主に信頼し、主とともに歩んでいきたいと思います。