大司教

週刊大司教第百十二回:年間第五主日

2023年02月06日

2月5日、年間第五主日の週刊大司教です。

2月5日は日本26聖殉教者の祝日でもあります。当日は、墨田区の本所教会で、殉教祭のミサを捧げることになっていますが、これについてはまた記載します。

なお来週2月11日の午後2時からは、世界病者の日のミサがカリタス東京の主催で、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。

ミャンマーでクーデターが発生してから、今月でもう2年です。軍事政権から民主化されたとか、平和が回復したという声は聞こえてきません。ボ枢機卿様はじめミャンマーの司教団は、対話による平和の確立を、繰り返し呼びかけておられますが、平和を叫ぶ宗教者への弾圧も続いています。ミャンマーのためにお祈りください。

以下、6日午後6時配信の週刊大司教第112回、年間第5主日のメッセージ原稿です。
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年間第5主日
週刊大司教第112回
2023年2月5日前晩

マタイ福音は、「地の塩、世の光」としてよく知られているたとえ話を記しています。

食物に味をつけたり腐敗を防いだり、塩には様々な役割があり古代から貴重な存在とされていますが、塩が貴重な理由はその存在それ自体ではなくて果たす役割にある事が指摘されています。同様なことが光についても指摘され、光それ自体の存在が貴重なのではなく、その果たす役割によって存在の重要性が与えられていることをイエスは語ります。その上でイエスは、ご自分に従う弟子の心づもりに触れています。

「あなた方の立派な行いを見て」褒め称えられるべきは、その行いを実行する者ではなく、「あなた方の天の父をあがめる」ためだと述べるイエスは、弟子が与えられた務めを忠実に果たしているかどうかを問いかけています。果たしてわたしたちはどうでしょうか。わたしたちが果たすべき役割に忠実であることによって、わたしたちにいのちを与え、救いへと招いてくださる主ご自身がたたえられるような、そういう弟子でありたいと思います。

2月5日は日本二十六世殉教者の祝日でもあります。聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。殉教者こそは自分の栄誉のためではなく、自らの存在と自らの受難と死を通じて、主イエスを証しするための道具となる道を選んだ人たちです。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」と苦しみの意味を記しています。

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。わたしたちには、同じ信仰の証しを続ける責務があります。