大司教

週刊大司教第百回:年間第三十一主日

2022年10月30日

現在、タイのバンコクで、アジア司教協議会連盟FABCの総会に参加中です。FABCについては、次週月曜以降、帰国してから報告します。

「週刊大司教」は、今回の配信で100回目となりました。これまで毎回、千を越えるアクセスを頂いています。多くの皆様のご視聴に、そして祈りの時をともにしてくださっていることに、心から感謝申しあげます。

新型コロナ感染症の暗闇の中で、ミサの非公開が続いていた期間は、関口教会から会衆を入れない形でのミサの配信を行いました。その後、制限を設けての公開ミサ再開後にあっては、教会まで出かけることが困難な方も大勢おられることから、「週刊大司教」という形で主日のメッセージの配信を行い、同時に霊的聖体拝領の機会としてきました。「週刊大司教」の第一回目は、2020年1月7日土曜日、翌日の年間第三十二主日のメッセージから始まりました。

いつまで続けるかは当初からの課題でしたが、視聴回数が千回を切った場合には中断することにしていましたが、ありがたいことに、これまで一度も千回を切ったことがありません。

徐々に教会活動も、完全ではないですが、以前のような形に戻りつつあります。そこで100回を持って全ての配信を終了することも考えました。しかし、高齢や病気などで教会に出かけられない方々からの要望も多数いただきましたので、今後は次のようにいたします。

まずは現在の形の「週刊大司教」は、今回の100回を持って終了とします。しかしその後、形を変えて、もう少し短い形で、主日の福音とメッセージを続けていくことにいたします。名称もそのまま「週刊大司教」として、101回目からは、全体の構成を変えて配信いたします。わたし自身の準備の負担や都合もありますが、ビデオを作成している教区本部広報職員の負担にも大きいものがありますので、全体として短い内容となりますが、ご理解いただきますようお願いします。101回目以降は、福音朗読とメッセージ、主の祈りと祝福という構成になります。

ただし、現在アジア司教協議会連盟の総会で、10月末までタイのバンコクに滞在中ですので、次の撮影と編集が間に合いません。そこで、次週の11月5日土曜日はお休みにさせていただきます。その後11月12日土曜日午後6時から、少しばかり装いを変えて、「週刊大司教」を継続いたします。

今後も、祈りの時をご一緒いただけたら、幸いです。

以下、29日午後6時配信、週刊大司教第100回、年間第31主日メッセージ原稿です。

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年間第31主日
週刊大司教第100回
2022年10月30日前晩

ルカ福音はザアカイの話を記しています。先週に引き続き、徴税人が主役です。

教皇様は2016年10月30日のお告げの祈りで、この話を取り上げ、次のように述べておられます。

「人々はザアカイのことを、隣人のお金を使って金持ちになった悪党と見なしていました。もしイエスが『搾取者、裏切者、降りてきなさい。こちらに来て、話をつけよう』と言ったなら、人々は喝采したに違いありません」

しかしイエスの言葉と行いは、罪人を糾弾するものではありませんでした。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」というイエスの言葉は、罪人との積極的なかかわりを求め、周りの人を驚かせるに充分でした。そもそもザアカイ自身がその言葉に驚き、信じられなかったことだと思います。

教皇様はそのイエスの言葉と行いを、「神は過去の過ちにとらわれるのではなく、未来の善を見据えます。イエスはあきらめて心を閉ざすのではなく、つねに心を開き、新しい生活空間を絶えず切り開いてくださいます。・・・イエスは(ザアカイの)その傷ついた心を見て、そこに行かれます」と指摘されました。

わたしたちは、簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義があるかのような勘違いをしながら、幾たび人を裁いてきたことでしょう。とりわけこの二年以上、感染症の暗闇の中で疑心暗鬼に捕らわれたわたしたちは、不安のあまり寛容さを失い、簡単に他者を裁いては自らの心の安定を取り戻そうとしています。他人を裁くときに、わたしたちの口からでる裁きの言葉は、わたしたちの心の反映です。裁く心に、果たして愛は宿っているでしょうか。そのようなとき、わたしたちはイエスがザアカイに取った態度、すなわち断罪という「過去の過ちに捕らわれるのではなく、未来の善を見据え」た行動を自分のものとしたいと思います。なんといっても、「自分の計る量りで計り返される」のだということを、わたしたちは心に留めておかなくてはなりません。

1987年に開催された福音宣教推進全国会議の答申を受けた司教団の回答である「ともに喜びをもって生きよう」には、「社会の中に存在する私たちの教会が、社会とともに歩み、人々と苦しみを分かち合っていく共同体となる」ための一つの道として、「裁く共同体ではなく、特に弱い立場におかれている人々を温かく受け入れる共同体に成長したい」と記されています。あれから35年が経過したいま、教会共同体はどう変化してきたでしょうか。

教皇様は同じ事を呼びかけるために、しばしば「連帯」という言葉を使われます。わたしたちの共同体には、連帯のうちに支え合う心があるでしょうか。それとも自分の立場を主張して、他者を裁き、排除する共同体でしょうか。

昨年2月10日の一般謁見で、祈りについて教えた教皇様は、こう述べています。

「祈りは、相手が過ちや罪を犯しても、その人を愛する助けとなります。どんな場合にも、人の行いより、その人自身の方がはるかに大切です。そしてイエスはこの世を裁くのではなく、救ってくださいました。・・・イエスはわたしたちを救うために来られました。心を開きましょう。人をゆるし、弁護し、理解しましょう。そうすれば、あなたもイエスのように人に近づき、あわれみ深く、優しくなることができます」。

いま、この社会にあっては、イエスのいつくしみのまなざしを具体化することが必要です。