大司教
週刊大司教第九十九回:年間第三十主日
2022年10月24日
ただいまバンコクにてアジア司教協議会連盟FABCの総会に出席中です。明日の日曜は世界宣教の日です。教皇様のメッセージについて,今週の週刊大司教でも触れましたが、メッセージ「あなたがたはわたしの証人となる」の邦訳はこちらのリンクの中央協議会のサイトにあります。
以下、22日午後6時配信、週刊大司教第99回、年間第30主日メッセージ原稿です。
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年間第30主日
週刊大司教第99回
2022年10月23日前晩
ルカ福音は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、目を上げることもなく胸を打った徴税人ほうが、自らの正しい行いを誇るファリサイ派の人よりも、神の目には正しい人とされた話を記します。当時の徴税人は様々な不正に手を染めていたとも言われ、多くの人の目には正しい人とは映らなかったことでしょうし、ファリサイ派の人は掟を忠実に守っていることから、多くの目からは正しい人と見なされていたことでしょう。謙遜と傲慢。この二人の根本的な違いは何でしょうか。
ファリサイ派の人の目は自分に向けられています。わたしが何をしたのか。わたしはどういう人間なのか。彼が語るのは、自分のことばかりであり、すなわち彼は自分の世界に閉じこもっている人であります。それに対して徴税人は、その目を神に向けています。自分がどういう人間であるのかと言う判断をすることなく、それをすべて神に委ねています。つまり二人の違いは、自らの存在を神に委ねているのか、委ねていないのかにあります。
パウロはテモテへの手紙に、「わたし自身は、すでにいけにえとして献げられ」と記します。回心後のパウロは、人生の中でどれほど偉大なことを成し遂げたかわかりません。しかしパウロにとっては、自分のためではなく、すべてを神に委ねた結果に過ぎません。
すべてを神に委ねたものの祈りを神は聞き入れると、シラ書も記しています。神にすべてを委ねた人のことを、「御旨に従って主に仕える人」とシラ書は記します。
わたしたちには、単に謙遜になることだけが求められているのではありません。謙遜さは、神にすべてを委ねた結果です。求められているのは、神にすべてを委ねることであり、だからこそ御旨に従って主に従うことであり、自分自身をいけにえとして献げることであります。
自分のためではなく、神が救いたいと望んでおられるすべてのいのちに福音が届けられるように、神に身を委ね、すべてを尽くして福音をあかしするものとなりたいと思います。
教会は本日を世界宣教の日と定めています。
教皇様は、世界宣教の日のメッセージのテーマを、「あなたがたはわたしの証人となる」(使徒言行録1・8)とされ、あらためて「キリストの弟子たちの共同体である教会には、キリストをあかしして世界を福音化する以外の使命はありません。教会のアイデンティティは、福音を説くということなのです」と強調されています。
その上で教皇様は、「宣教は、個別にではなく、教会共同体との交わりをもって、己の発意でではなく共同で行うものです」とも記し、教会全体が福音宣教の使命を担っていることを思い起こさせます。
さらに教皇様は、「キリストの宣教者が遣わされるのは、自分のことを伝えるためでもなければ、己の説得力や管理の腕前を見せつけるためでもありません。そうではなくこの人たちは、最初の使徒たちのように、ことばと行いによってキリストを示し、喜びと率直さをもってその福音をすべての人に告げるという、崇高な栄誉にあずかっているのです」とも記しています。
教会には教皇庁宣教事業(Pontifical Mission Societies)があり、「ミッシオ」(Missio)とも呼ばれています。教皇様の管轄と調整の下で、全世界の宣教の促進に向けられたカトリック教会の世界的ネットワークであり、宣教地における活動を支援し続けています。世界宣教の日に当たり、自らの宣教者としての使命を思い起こし、教会共同体の宣教の業のためにも祈りましょう。