大司教

週刊大司教第八十五回:年間第十六主日

2022年07月19日

梅雨が明けたかと思ったら、まるで梅雨のような雨降りの毎日が続いています。

ウクライナでは戦争が続き、多くの命が暴力的に奪われ、危険にさらされる毎日が終わりません。日本でも、自らの思いを実行するために銃を持って元総理大臣の命を暴力的に奪う事件がありました。世界はまるで、命に対する暴力に支配されつつあるかのようです。私たち信仰者は、神からの賜物である命は、その始めから終わりまで、徹底的に守られ、その尊厳が尊重されなくてはならないと、あらためて強調したいと思います。


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今年も8月に入ると平和旬間となります。教区としての呼びかけも別途記しましたので、後ほど紹介しますが、司教協議会会長としても、平和旬間を迎えてのわたしの談話を公表しています。タイトルを教皇様の言葉から、「平和は可能です。平和は義務です」といたしました。こちらのリンクからご覧ください

ウクライナの戦争が続いているため、世界の関心はそちらに向けられています。これまでも世界では次から次へと悲劇的な出来事が発生し、しばしば世界の関心は移り変わり、忘れられてしまう出来事も少なくありません。

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東京教区にとっては、ミャンマーの教会は姉妹教会であり、長年にわたって支援を続けてきましたから、今こそ息の長い平和のための祈りを続けたいと思います。その一環として、7月9日の夜6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、ミャンマーの平和のための祈りの集いを行いました。府中教会のヴィンセント神父様(ミャンマー出身)と、教区のミャンマー委員会のレオ神父様を中心に、ミャンマー出身の方が集まってくださり、一緒に祈りをささげました。写真はその祈りの集いの様子です。

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東京教区の今年の平和旬間は、わたしたちの兄弟姉妹の苦しみを忘れないという姿勢を明確にするために、あらためてミャンマーの平和のための祈りを中心にした、平和のために祈る時にしたいと思います。

以下、16日午後6時配信の、週刊大司教第85回、年間第16主日のメッセージ原稿です
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年間第16主日
週刊大司教第85回
2022年7月17日前晩

ルカ福音はよく知られているマリアとマルタの態度を対比させた物語を記しています。イエスを迎え入れたとき、マルタは忙しく立ち振る舞い、マリアはイエスの足元で話に聞き入っています。

手伝おうとしないマリアに業を煮やしたマルタが不平を漏らすとき、イエスは「マリアはよい方を選んだ」と断言します。これでは一生懸命になってもてなしをするマルタがかわいそうです。一体イエスの本意はどこにあるのでしょう。

イエスの本意を知る手がかりは、マルタが「せわしく立ち働いていた」という描写と、イエス自身の「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言う言葉にあります。すなわちイエスは、もてなすために働くマルタを否定し、イエスの言葉を聞くことだけに集中するマリアを肯定しているのではなくて、多くのことに思い悩んで心を乱しているのか、神の心だけに集中しているのかの選択を迫っています。

そもそも話の冒頭で、イエスを迎え入れるのはマルタです。創世記でアブラハムが三人の旅人を無理にでもと迎え入れたように、マルタはイエスを家に迎え入れます。マルタのこの迎え入れる態度がなければ、全ては始まりません。マルタがイエスを迎え入れていなければ、マリアはその足元でイエスの言葉に耳を傾けることもなかったことでしょう。

マルタのこの行動とアブラハムの行動は、わたしたちに、迎え入れる態度こそが、神との出会いの鍵であることを教えています。

先日のカトリック新聞で(6月26日号)、麹町教会のウェルカム・テーブルのことが大きく紹介されていました。同様の取り組みをしている教会は他にもあると聞いています。多くの人を迎え入れる行動は、神との出会いの場をもたらします。キリストの弟子であるわたしたちに必要な基本的な生きる姿勢の一つは、この迎え入れる態度であって、それはわたしたちが人なつこくて優しいからではなくて、その態度と行動が、神との出会いの場を生み出すからに他なりません。

様々なことに心を奪われ、心を乱していたマルタは、思いの外激しい口調で、迎え入れた客であるはずのイエスに不平をぶつけます。そのときマルタの迎え入れる心はどこにあったのでしょうか。肝心のもてなす対象であるイエスに、苦情を言いつける態度は、どう見ても目的を取り違えた態度です。つまり、何のためにもてなしているのかを忘れて、もてなすことそれ自体が重要であるかのように勘違いをしてしまったのです。イエスは、正しくふさわしい目的に、心を集中させるようにと諭します。

教皇フランシスコは2019年7月21日のお告げの祈りでこの話を取り上げ、次のように述べています。「マリアの姿勢を褒めることで、イエスは、わたしたち一人ひとりに再びこういっておられるのではないでしょうか。『しなければならないことに翻弄されず、何よりもまず、主の声に耳を傾けなさい。そうすれば、あなたの人生に課されたことを、しっかり果たせるようになります』」。

わたしたちはこの世界に神との出会いの場を一つでも多く生み出すために様々なことに挑戦していきます。わたしたちの弟子としての福音宣教です。多くのことをしていたとしても、その目的は神と共にいることであり、他の人たちを神と共にいる場に招くことです。招く行動それ自体が大切なのではなくて、大切なのは神と共にいる場を生み出すことであります。目的をしっかりと心に留め、そのための手段を神聖化するような間違いを犯さないようにしたいと思います。