大司教

週間大司教第八十四回:年間第十五主日

2022年07月11日

安倍元首相が銃撃され亡くなられたとのニュースを聞き、驚きと共に悲しみが湧き上がっています。安倍元首相の永遠の安息をお祈りいたします。

命に対する暴力を働くことによって、自らの思いを遂げようとすることは、命を創造された神への挑戦です。神が賜物として命を与えられたと信じるキリスト者にとって、命はその始めから終わりまでその尊厳と共に守られなくてはならない賜物です。

今回の暴力的犯罪行為の動機は、これから解明されるのでしょうが、多くの人が自由のうちに命を十全に生きようとするとき、そこに立場の違いや考えの違い、生きる道の違いがあることは当然ですから、その違いを、力を持って、ましてや暴力を持って押さえ込むことは、誰にもゆるされません。暴力が支配する社会ではなく、互いへの思いやりや支え合いといった神のあわれみの心が支配する社会の実現を目指したいと思います。

9日午後6時より、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京教区の姉妹教会であるミャンマーの兄弟姉妹の皆さんと共に、ミャンマーの平和のために祈る集いが開かれます。こちらも配信をされることになっています。軍事政権が暴力を持って人々の自由を圧迫し、いのちの尊厳をないがしろにしているミャンマーの現状に心を馳せ、平和を祈ります。また昨日の安部元総理襲撃という事件がありましたので、全ての暴力を否定し、神の正義が支配する社会の実現のために祈ります。これについては別途また報告します。

以下、9日午後6時配信の週間大司教第84回、年間第十五主日のメッセージ原稿です。
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年間第15主日
週刊大司教第84回
2022年7月10日前晩

ルカ福音書は、よく知られた「善きサマリア人」の話を伝えています。

律法の専門家のイエスに対する問いかけは、これだけのことをすればこれだけの報いがあるはずだという、例えば労働の対価としてそれに見合った報酬があるべきだというような意味合いで、正義の実現として正しい問いかけではあります。しかし、神と私との関係の中では、これだけすればこれだけ報いがあるはずだ、という論理は通用しません。なぜならば、神を信じるとは、「自分自身を神にゆだね、神が真理そのものであるため、神から啓示されたあらゆる真理に同意しながら、神ご自身に帰依すること」であって、それはつまり神からの一方的な働きかけに身を任せることに他ならないからです。(カテキズムの要約27)。

神を信じることは、レストランでメニューから選択したら食事が出てくるような類いのことではなくて、神に帰依しているのですから、主体である神が望まれるように生きることであります。人生の様々な出会いの中で、神がどのように行動することをわたしたちに望まれるのかが問題であって、事前に用意されたメニューを選択することでは決してありません。

見事な回答をした律法の専門家に対して、イエスは、「よく知っているではないか。それではその神の望みを具体的に生きれば良い」と告げます。しかし律法の専門家は、事前に用意されたメニューにこだわります。隣人の範囲は一体どこまでなのかと問いかけています。

善きサマリア人の話は、神が求められているいつくしみのおもいに心を動かされることなく、自らが事前に選択した道をひたすらに歩む二人の姿と、神のいつくしみの心に動かされて、それを具体的に生きようとしたサマリア人の対比を描きます。

教皇ヨハネ・パウロ二世は回勅「いつくしみ深い神」に、神のいつくしみについて記しています。

「いつくしみの本当の本来の意味は、ただ見ていること、どんなに深く同情を込めてであっても、・・・悪いことを見つめていることではなく、・・・世界と人間の中に実際にある悪いことからよいものを見出し、引き出し、促進するとき(6)」に表れます。

わたしたちに求められているあわれみ深い行動は、単にわたしたち自身の優しい性格によっているのではなくて、それは神ご自身の思い、張り裂けんばかりに揺さぶられている神のあわれみの心に、わたしたちが自分の心をあわせることによって促される行動です。

神ご自身は、ただ傍観者としてあわれみの心を持ってみているのではなく、自ら行動されました。自ら人となり、十字架での受難と死を通じて、ご自分のいつくしみを目に見える形で生きられました。そこに、最初から用意されていたメニューはありません。

いつくしみそのものである神は、その愛に基づいて、信じるものが隣人への愛に生きるように促されます。一人ひとりの信仰者が促されると共に、教会は共同体としてその責務を担っています。

教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」に、「教会の全ての活動は、人間の完全な善を求める愛を表します。・・・愛とは、物質的な事柄も含めた、人間の苦しみと必要にこたえるために教会が行う奉仕を意味します」と記して、教会全体が組織的に神の愛を具体化する行動を取るように促します。

わたしたち一人ひとりの生活での出会いを通じて、また教会の組織を通じて、神のいつくしみの心のおもいを身に受けて、具体化して参りましょう。