大司教
週刊大司教第七十八回:主の昇天の主日
2022年05月30日
すでにご存じの方が多いとは思いますが、新型コロナ感染症に罹患し、この数日は臥せっております。すでに多くの方から、メールやFB上で励ましのコメントを頂き、また多くの方にお祈りいただいていることに、心から感謝いたします。
23日月曜日の夜には、遅くまでFABCの総会準備委員会がオンラインで行われ参加していましたが、そのあたりから軽い発熱と喉の痛みを感じ始めました。そのまま翌火曜日朝には症状が悪化し、そのままその日は教区本部に出勤せずに自室で休んでおりました。しかしながら水曜には熱もまし喉の痛みも激しくなってきたので、医療機関を受診し、新型コロナ陽性と診断されました。
その後すぐに文京保健所から携帯に電話があり、保健所の指示で最低でも10日間の自宅療養となりました。(現時点では23日をゼロとして、6月2日までの自宅療養を指示されています)なお、ワクチンは、三度すでに接種済みです。
木曜と金曜には、38度程度の熱と激しい喉の痛み、咳で、声もでなくなってしまいましたが、土曜日、本日の朝には熱も少し落ち着き、喉の痛みも多少和らいできたと感じます。ただ、声は多少出るようになりましたが、戻っていません。こうしてPCの前で座ってタイプできるようになったのも、昨日からです。私は子どもの頃から喉が弱く、よく喉を痛めて高熱を出してきました。これは大人になっても変わらず、特に疲れたときなどに喉を痛め、高熱を出すことがあります。それで慣れていると言うのではなく、それにもかかわらず、今回ほど激しい喉の痛みには遭遇したことがないほど、喉を痛めつけられました。
文京保健所と東京都のフォローアップセンターからは、一日に数回、病状確認の電話があり、また登録したラインで症状を一日二度(午前午後)報告するなど、細かくケアを頂いています。独居で罹患された方々には、こういった電話による確認は、誰かに見守られている、つながっているという安心をもたらす、重要なものだと実感いたします。大勢の対象となる方を抱え、保健所などのスタッフの皆さんには大変な業務量だと思いますが、その大切なお働きに、心から感謝いたします。
教区の業務にいろいろと支障をきたし、またいくつかの予定をキャンセルすることになって、大変申し訳ありません。特に亀有教会の皆さんには、明日の昇天の主日に、教会50年の記念ミサの予定でしたのに、出かけることができなくなり、申し訳なく思います。一日も早く現場復帰できるように、皆様のお祈りの時に覚えていただけると幸いです。
教会の諸活動にあっても、そろそろ大丈夫だろうと気を緩めず、今一度,対面行事やミサなどでの感染対策をご確認いただければと思います。
以下、28日午後6時配信の週刊大司教第七十八回、主の昇天のメッセージ原稿です。なお映像は5月18日に収録したものです。
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主の昇天の主日
週刊大司教第78回
2022年5月29日前晩
御父のもとへと旅立たれる主を目の当たりにして、弟子たちは呆然と佇んでいました。使徒言行録は、その弟子たちに対して天使が、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と語りかけたと記します。天使の呼びかけは、ただ呆然と立ち尽くすのではなく、イエスが再び来られることを確信しながら、その日まで、与えられた使命を果たして生きよという、促しの言葉であります。
弟子たちは何をするように促されていたのでしょうか。ルカ福音も使徒言行録もともに、聖霊による導きの約束と、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というイエスの言葉を記します。すなわち弟子たちは、自分勝手に何かを語ることではなく、神の聖霊に満たされ導かれて、イエスの言葉と行いについて、世界中の人たちにあかしをする福音宣教者となるように促されているのです。
わたしたちは、自分勝手に好きなことを語る宣教者ではなく、聖霊に導かれて主イエスの言葉と行いを語る忠実な宣教者でありたいと思います。
2015年5月24日に回勅「ラウダート・シ」が発表されたことを受けて、毎年5月には、「ラウダート・シ週間」が設けられ、教皇が呼びかけた総合的エコロジーの視点から、わたしたちの共通の家である地球を守るための道を模索し、行動を決断するときとされています。
今年の「ラウダート・シ週間」は5月22日から29日までとされ、そのテーマは、「ともに耳を傾け、ともに歩もう」であります。「ともに」と言う呼びかけは、もちろんシノドスの道程を今ともに歩んでいるからに他なりません。教皇フランシスコは回勅に、「皆がともに暮らす家を保護するという切迫した課題は、人類家族全体を一つにし、持続可能で総合的な発展を追求するという関心を含んでいます」と記されました。残念ながら、この数ヶ月、わたしたちはこの共通の家を争いの場としてしまい、武力の行使は地球を荒廃させ、さらには環境の中心にある賜物であるいのちを暴力的に奪い去ります。人類家族全体は、残念ながら一つにはなっておらず、共通の家に対する配慮は後回しにされています。
わたしたちはこの現実の中で、キリストの福音をあかしするものとして遣わされています。教会を導く聖霊は、わたしたちにこの現実の中で何をあかしするようにと導いておられるのでしょう。
創世記には、神が人を創造されたときに、互いに助けるものとして共に生きるようにと、二人の人を創造していのちを与えられた事が記されています。わたしたちは互いに助け合うようにいのちを与えられました。いのちを守らず、他者への配慮を忘れた世界には、神の平和がありません。
回勅「ラウダート・シ」で教皇フランシスコは、神が創造されたものは、一つとして他者と関係なく勝手に存在するものはなく、すべてが密接につながっていることを指摘し、こう記しています。
「密接に絡み合う根本的な三つのかかわり、すなわち、神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っていることを示唆しています。聖書によれば、いのちに関わるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です」(66)
福音を告げしらせるようにと遣わされているわたしたちには、この世界において、三つのかかわりが引き裂かれている状態を修復させる務めがあります。神が望まれる世界は、「創造主と人間と全被造界との関係」が修復され、調和が実現している世界であるはずです。