大司教

週刊大司教第二十四回:復活節第五主日

2021年05月02日

復活節も第五主日となりました。東京教区でも東京都は緊急事態宣言の対象となっておりますし、都県境をまたいで千葉県などで隣接する教会も多いことから、それぞれの小教区の事情に応じて、ミサの公開を一時中止としているところもあること、報告をいただいています。

4月29日には、上の写真にあるとおり、小田神父様、古市神父様の司祭叙階式を、参加者を限定して執り行うことが出来ました。それ以外は、多くの予定されていた行事が中止や延期となっています。この主日、5月2日は五井教会で堅信式の予定でしたが中止。5月5日は豊四季教会の五十周年ミサを司式する予定でしたが、これもプライベートなミサに変更。昨年から一年延期となり、連休中に予定されていた全国のカトリック青年の集まりも再度の延期。などなど、それ以外にも、特にこの連休中に予定されていた諸行事が、延期や中止となっているものと思います。

一日も早くこの困難な状況が終息し、再び笑顔で教会に集える日が戻るように、病床にある方々に回復を、医療関係者の健康が守られるように、五月中は特に聖母の取り次ぎを願って、祈り続けましょう。祈りの力で、霊的に結ばれていることを、再確認いたしましょう。

教皇様の、五月中にロザリオ・マラソンを行うという呼びかけに応え、急遽、東京教区でもロザリオのビデオを作成しています。5月3日から5月31日の、五月中の毎週月曜日昼に、東京教区のyoutubeアカウントから、週刊大司教と同じように配信します。準備するにはとても短い時間ですが、担当者がオーバータイムで必死に作成してくれていますので、これが皆様のお祈りの一助となれば、幸いです。

配信内容としては、ロザリオの前にわたしのメッセージがあり、そのあと、月曜ですが復活節でもあるので「栄えの神秘」を、毎回一連ずつ唱えましょう。(毎月曜に一連で、今年の5月は5回月曜があるので、一ヶ月でちょうど一環となります)最後に、昨年の信徒への手紙に記されていた、教皇フランシスコの祈りを唱えて終わります。もちろんその後で、それぞれの場で、一環、またはそれ以上、祈り続けてくださって構いません。

いわゆる入管法(出入国管理及び難民認定法)などの一部を改正する案が国会で審議され、先般の名古屋入管におけるウィシュマ・サンダマリさんの死亡の事案などもあり、改正に反対する声が上がっています。こういったことに関する教会の態度は明確です。

教会は、その旅路がどのような理由で始められようとも、そのどこにあっても、どのような状況にあっても、神の似姿である人間のいのちの尊厳は、常に守られなくてはならないと主張します。

申命記10章19節には、「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」と記されていました。困難に直面する人々に、救いの手を差し伸べることは、そもそもの神の民の務めです。

わたしたちが最優先するべきなのは、移住者の現在の法律的な立場ではなく、人間としての尊厳であると、教会は長年にわたり主張してきました。例えば1996年世界移住の日のメッセージで、教皇ヨハネ・パウロ二世はこう指摘しています。

「違法な状態にあるからといって、移住者の尊厳をおろそかにすることは許されません。・・・違法状態にある移住者が滞在許可を得ることができるように、手続きに必要な書類をそろえるために協力することはとても大切なことです。・・・特に、長年その国に滞在し地域社会に深く根をおろして、出身国への帰還が逆の意味で移住の形になるような人々のために、この種の努力をしなければなりません。」

教皇フランシスコは、難民や移住者への配慮を、いのちの尊厳に基づいて強調されています。それぞれの国家の法律の枠内では保護の対象とならなかったり、時には犯罪者のように扱われたり、さらには社会にあって異質な存在として必ずしも歓迎されないどころか、しばしば排除されている人たちが世界に多く存在する。教皇フランシスコは、危機に直面するそのようないのちの現実を前にして、法律的議論はさておいて、人間のいのちをいかにして護るのかを最優先にするよう呼びかけています。従って、現在の法律の改正論議にあっても、人間のいのちの尊厳が守られることをまず優先してくださることを希望してやみません。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第二十四回目のメッセージ原稿です。
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復活節第五主日
週刊大司教第24回
2021年5月2日前晩

使徒言行録は、回心したパウロが、当初は彼を迫害の手先として恐れていた弟子たちから受け入れられ、その出来事を通じて教会が、「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて」いった様を記しています。

神の救いの計画は、人知をはるかに超えた方法をとりながら、成就する道をたどることを、あらためてわたしたちに認識させます。同時にわたしたちは、その人知をはるかに超える道は、聖霊によって導かれていることも知っています。

教会は、聖霊によって導かれています。第二バチカン公会議の教会憲章は、五旬祭の日に遣わされた聖霊が教会を導き続けていることを明確に指摘し、「聖霊は福音の力を持って教会を若返らせ、絶えず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」と記しています。(4)

ヨハネも手紙の中で、「神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります」と記すことで、教会に働き、教会を導き続ける聖霊の働きを明確にします。

ヨハネ福音は、主ご自身がぶどうの木であり、わたしたちは枝として連なっているのだという話を記します。主イエスは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と指摘されます。

枝は、ぶどうの木である主イエスにつながっている限り、「豊かに実を結ぶ」ものの、どのような実を結ぶのかは、枝の自由にはなりません。すなわち、わたしたちが幹である主に枝としてつながると言うことは、自分が生み出したい実りを生み出すためではなく、主が望まれる実りを、主に与えられるがままに実らせることであります。

わたしたちはこのことを理解しているでしょうか。信仰を深めたとき、自分自身がよしとする理想を、真の実りと取り違えてしまうことはないでしょうか。豊かな実りは、主の実りであって、わたしたちの実りではありません。しかもその実りは、教会を導く聖霊による実りでもあります。聖霊は人知をはるかに超える方法で、教会に実りをもたらします。仮に、自分の理想を実りだと思い違いをするならば、それは教会に働く聖霊の導きを否定することにもなりかねません。

聖霊の導きに全幅の信頼を寄せ、自らの理想に固執することなく、神の御手にすべてをゆだねたのは、聖母マリアでありました。

教会は5月を聖母の月として、ロザリオの祈りをささげるよう勧めています。パウロ6世は第二バチカン公会議後の典礼改革のなかにあって、聖母への信心の重要性を説いた「マリアーリス・クルトゥス」に、「ロザリオは天使による喜ばしいあいさつとおとめの敬虔に満ちた承諾から始まって、福音からインスピレーションを受けて、信者がそれを唱えるべき態度を示唆しています」と記し、聖母が「お言葉通りにこの身になりますように」と神の御手にご自身をすべてゆだねた態度に倣うように勧めています。また教会は伝統的に、人類が危機に直面するとき、聖母の取り次ぎを求めて、祈りをささげてきました。コロナ禍の今、わたしたちはこれまで以上に祈らなくてはなりません。

わたしたちは、聖母に倣い、聖霊の導きに勇気を持って身を任せましょう。自分の実りではなく、主の実りを生み出す枝でありましょう。