大司教

週刊大司教第十六回:四旬節第一主日

2021年02月22日

2月17日は灰の水曜日でしたから、四旬節が始まりました。第一主日のメッセージです。

四旬節には、祈り、節制、愛の業が勧められています。その三つを具体的に行動で現すのが、四旬節愛の献金です。カリタスジャパンが毎年とりまとめていますが、これは通常のカリタスがお願いする募金とは異なり、「祈り、節制、愛の業」を具体的に生きる行為であることを心にとめてください。四旬節献金は、世界各地で必要とされている方々のいのちを守り育むための活動に活用されていきます。教皇様のメッセージと併せて、詳細はこちらのカリタスジャパンのホームページをご覧ください

なお、教皇庁典礼秘跡省から、昨年に引き続き、聖週間の典礼について指示が送付されてきました。すでに東京教区の典礼担当でまとめた内容と同じでしたので、小教区の主任司祭にはガイドラインを配布してあります。昨年は聖週間の典礼は非公開でした。今年は、現状であれば、感染対策の上で入場制限を行って典礼を行うことは可能であろうと判断しています。もちろん、状況が悪化した場合は別途判断いたします。

行政の緊急事態宣言が解除となった時点で、あらためてその時点以降の感染対策についてお知らせしますが、聖週間の典礼は、バチカンの指示に準拠して、かなり例年とは異なる形になります。特に行列を行う場面はすべて中止となり、また洗足式なども行いません。またやはり全員での一斉の歌唱は難しいと思いますが、聖歌隊など少人数での歌唱が可能となる状況であるように期待しています。

2月28日の日曜日には、ヨハネ・パウロ二世の訪日40年の記念ミサを、ポーランド大使館の主催で、カテドラルで行う予定でした。残念ながら、これもまた延期となりました。40年前、わたし自身はまだ神言修道会の修練士(ノビス)でしたが、東京カテドラルで行われた聖職者の集いに、他の修練士と一緒に参加することが出来ました。その時点では、まさかその同じ教皇様に、20数年後に新潟の司教に任命されるとは思ってもみませんでした。今のように携帯電話などない時代でしたので、集会後の大混乱の中で、一緒にマイクロバスで名古屋から来ていた修道会の仲間と落ち合うのに、難儀したことを記憶しています。聖ヨハネ・パウロ二世の訪日については、中央協議会のこちらをご覧ください。また同じ中央協のページで、当時の写真はこちらです

なお、東京教区の人事異動の第一次を発表してあります。今年は、これまでも感染症の状況のため、小教区活動がほとんど滞っている現状を考慮して、教区に関しては、通常の御復活での人事異動を最低限といたしました。今後、状況に応じて9月頃にもう一度小規模な人事異動を考えております。ただし教区内で働かれる修道会関係では動きがありますので、これも随時、公示いたします。

以下、本日夕方公開の、週刊大司教のメッセージ原稿です。
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四旬節第一主日
週刊大司教第16回
2021年2月21日前晩

イエスは聖霊によって、荒れ野へと送り出されました。普通に生活を営むことが難しい場であるからこその荒れ野です。そこにはいのちを危機に陥れるありとあらゆる困難が待ち構えていると、容易に想像できるにもかかわらず、イエスは聖霊の導きに身をゆだねました。

イエスは40日にわたって荒れ野に留まり、サタンの誘惑を受けられました。逃げ出すことも出来たのかも知れません。しかし聖霊の導きに信頼するイエスは、御父への信頼のうちに希望を見いだしていました。

イエスは荒れ野での試練の間、人の命を脅かす危険に取り囲まれていながら、天使たちに仕えられていたと記されています。すなわち神の愛に基づく配慮に包み込まれることによって、命の危険から守られていました。

福音を宣べ伝えるための「時」が満ちるのを待ち続けたイエスは、信仰の内に真理を受け入れ、神の導きに身をゆだね、その導きの内に希望を見いだし、それが故に神の愛に包まれていました。荒れ野での40日間の試練は、身体的な困難を乗り越えただけではなく、また心の誘惑に打ち勝っただけではなく、神に対する信仰、希望、愛を確認し、それを確信し、それによって力を得た体験です。信仰、希望、愛に確信を見いだしたとき、イエスは福音を宣べ伝えるためのふさわしい「時」を見いだしました。

この一年、わたしたちは命の危機に直面する中で、信仰の危機にも直面しています。今この時点でも、命を守るために取り組んでおられる医療関係者の皆さんに感謝し、また病床にある多くの方のためにお祈りいたします。わたしたちの信仰生活の頂点には、感謝の祭儀があります。

「聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す」と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されていますから、ミサにあずかることと、聖体を拝領することは、わたしたちの信仰生活にとって欠くべからざる重要なことであります。共に集う共同体のない信仰は、考えられません。

いま、集うことや共に聖体祭儀に与ることが難しい状態にあります。自分自身の感染を避け、また隣人の命を守るための選択ですが、共同体を解散したわけではありません。互いの信仰の絆が消え去ることはありません。困難な試練の時にあっても、聖霊の正しい導きを共に識別し、それに信頼し、その正しい導きに身をゆだねましょう。さまざまな甘言を弄する誘惑に惑わされないようにしましょう。聖霊の導きの内に、命の希望を見いだしましょう。互いの信仰の絆の内に、御父の愛を見いだしましょう。信仰、希望、愛に信頼を置き、勇気を持って福音を告げてまいりましょう。

四旬節の始まりに当たり、教会は第一主日に洗礼志願式を行うように勧めています。それは、キリスト者として生きることを望み、そのための学びと祈りの時を過ごしてきた方々が、洗礼への最後の準備をするために最もふさわしいのが、四旬節だからです。

四旬節にわたしたちは信仰の根本に立ち返り、何を信じているのか、どうして信じているのか、信じているのであればどのように生きるのかを見つめ直すよう招かれています。

したがって、洗礼を望まれる方々が信仰における決断を下そうと最終的な準備をするとき、教会共同体も洗礼志願者と一緒になって信仰を振り返る道を歩むことは、わたしたちの教会が徹頭徹尾「共同体」であることを考えたとき、ふさわしいことです。それぞれの教会共同体で洗礼の準備をされている洗礼志願者の方々のために、特に祈りをささげましょう。