大司教
週間大司教第十二回:年間第三主日(神のことばの主日)
2021年01月25日
今日公開のメッセージの中でも触れていますが、年間第三の主日は、神のことばの主日とされています。この主日は教皇フランシスコによって制定され、昨年から始まりました。
神のことばの主日制定の使徒的書簡「アペルイット・イリス」は、中央協議会のこちらから読むことが出来ます。
この書簡の中で教皇は、神のことばの主日を定めて、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげることを宣言」されました。その上で教皇は、この主日がちょうどキリスト教一致祈祷週間と重なることも念頭に、次のように記しています。
「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる、その時期にふさわしいものとなることでしょう。これは、ただ時期が偶然重なるということ以上の意味をもっています。「神のことばの主日」を祝うことには、エキュメニカルな価値があります。聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示すからです」
聖書を通じて尊場に触れることの大切さを強調する教皇は、「主は自らの花嫁に生きたことばを絶えず語り続け、花嫁である教会は愛のうちに、また信仰のあかしのうちに成長することができます」と、この書簡の中で指摘されています。この主日が、聖書を通じてさらに神のことばに触れる契機となればと思います。
ところで、今年は2月17日が灰の水曜日となり、間もなく四旬節が始まります。昨年は灰の水曜日の翌日から、ミサの公開を中止しました。今年がどうなるのかは、今の時点では想定できませんが、現時点では、これまで同様の感染症対策を施した上で、それぞれの小教区の事情が許し、対応が充分に出来る場合には、四旬節の典礼を行う予定でおります。
なお灰の水曜日に関して、聖座から、今般の自体への対応の指示が来ていますので、それに基づいて、詳細を教区典礼担当者から神父様方にはすでに通知をいたしました。
主な注意点は、できる限り沈黙を守るため、灰をかけるときのことば、「回心して福音を信じなさい」または「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」を、全員に対して一度だけ唱え、個別には唱えないこととと、灰で額に直接触れながら十字のしるしをすることはせず、かけるだけにすることなどです。
また昨年は受難の主日の典礼が出来ていませんので、祝福された枝をお持ちでない方も大勢おられることと思います。仮に小教区で昨年の枝を充分に集めることが出来ない場合には、今年に限ってそのほかの枝を利用して灰をつくることも認めています。
以下、1月23日土曜日夜公開の、週刊大司教第十二回のメッセージ原稿です。
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年間第三主日(神のことばの主日)
週刊大司教第12回
2021年1月24日前晩
「イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」
マルコ福音書はその冒頭で、洗礼者ヨハネの出現を伝え、さらにイエスの洗礼について述べた後、荒れ野における四十日の試練に簡潔に触れています。そしてその直後に「ヨハネが捕らえられた後」として、イエスが神の福音を宣べ伝えたと記します。本日の福音朗読です。すなわち、「神の言」の受肉であるイエスは、その本性からして福音そのものであり、存在すること自体が神の福音のあかしでありますから、当然、福音を宣べ伝えることがイエスの公生活を根底から支える礎であると明確に示しています。
さらにマルコ福音書は続けて、イエスがガリラヤ湖のほとりでシモンとアンデレを弟子として召し出された話を記します。すなわち、福音を宣べ伝える業を、イエスはその最初から共同体の交わりの中で行ったのだと記すことで、福音宣教は教会にとって本質的な働きであり、なおかつ共同体の業であることを明示しています。
「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて弟子を召し出される主は、その「人をとる漁」なるものを、突拍子もない驚愕的な業を持ってするのではなく、地道だけれど徹底した福音のあかしによって行うのだということを、マルコ福音書は、すべてを捨てて主イエスの働きに身を投じる弟子の姿を記すことで明らかにします。わたしたちの信仰は、神の言葉の存在とその宣言抜きには考えられない信仰です。
教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を発表され、年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められました。今年は1月24日が、「神のことばの主日」であります。
教会は、聖書と共に、使徒たちから伝えられた「信仰の遺産」である生きている聖伝も大切にしています。カテキズムは、「どちらも、『世の終わりまで、いつも』弟子たちとともにとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるもの」だと指摘しています(80)。
それを前提として教皇は、「神の言」の重要さを指摘する聖ヒエロニムスの言葉、「聖書についての無知はキリストについての無知である」(聖ヒエロニムス『イザヤ書注解』)を引用します。
その上で教皇は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘します。
第二バチカン公会議の啓示憲章も、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。
わたしたちはシモンとアンデレのように、今日、「私についてきなさい.人間をとる漁師にしよう」と召し出されています。それぞれの生きる場で、神のことばをあかしして生きるように、招かれています。その招きに答えるために、わたしたちは、日頃から、また典礼祭儀において、神のことばに耳を傾け、慣れ親しみ、自らの心にそれを刻み込んでおきたいと思います。