大司教
週刊大司教第七回:待降節第四主日
2020年12月21日
待降節も終わりに近づき、主の降誕への準備が進む季節です。上の写真は、東京教区本部入り口の飾りですが、よく見ると、まだ幼子は置かれていません。まだです。
12月18日に帰天された岡田大司教様の葬儀などについては、こちらの東京教区ホームページをご覧ください。残念ながら、現在の状況のためさまざまな制約があり、いつものような葬儀ができないことが残念です。岡田大司教様の永遠の安息のために、祈りましょう。
降誕祭が近づいていますが、今一度、教区ホームページに掲載されている現時点での対応を確認ください。ミサ以外の教会の諸活動は、中断してください。状況に応じて、年明けには戻せるように願っています。ミサについては、基本的な感染対策をお願いします。なお、東京では大晦日の電車島の終夜運転は中止になっているようです。小教区でその影響がある場合、新年の深夜ミサなどは、主任司祭の判断で、中止とするようにご検討ください。
以下、待降節第四主日のメッセージ配信、週刊大司教の原稿です。
※印刷用はこちら
※ふりがなつきはこちら
待降節第四主日
週刊大司教第7回
2020年12月20日前晩
「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」
マリアはこの言葉を持って聖母となりました。マリアにとって天使ガブリエルからのお告げは、全く理不尽な内容であったに違いありません。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」と言う、強い否定の言葉に、その困惑の度合いが感じられます。しかしマリアは、聖霊の働きを通じた神の不思議な計画についての天使のお告げを受け、「神に出来ないことはなに一つない」と言う言葉に信頼を置き、神の計画にすべてをゆだねることを信仰において決意します。
教皇パウロ六世は使徒的勧告「マリアーリス・クルトゥス」において、「マリアの信仰は、彼女にとって神の母になるための手段であり、道でもあったのです」と指摘しています。その上で教皇は聖アウグスチヌスの言葉を引用して、「信仰に満たされて、胎内にキリストを宿らせるに先立って心にキリストを宿らせたとき、彼女は『私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように』と答えた」として、教会がキリストと一致して生きていることへの模範を聖母マリアの信仰が示していると指摘します。
さらに教皇は、教会は聖母マリアの行動原理に倣って生きていると指摘し、特に典礼において、「神のみことばを信仰を持って聞き、引き受け、のべ伝え、尊び、生命の糧として信者に分け与え、さらにまた、みことばの光に照らされて『時のしるし』を吟味し、歴史における出来事を解釈しつつ生き続けている」と述べています。(17)
聖母マリアの信仰は、この世界を支配しているのは人間ではなくて、世界を創造された神であるという、神の前にへりくだる明確な態度と確信に基づいています。この世界は、創造主である神によって支配され、神はその計らいを持ってわたしたちを導かれる。そのように信じて生きる行動の原理を、聖母マリアの人生はわたしたちに模範として示しています。
「神に出来ないことは何一つない」という信仰における確信は、自らの人生をあきらめることではなく、神の計画を実現するために貢献するのだという前向きな希望を生み出すものです。
教皇フランシスコは11月29日のお告げの祈りで、「待降節は、絶え間なき希望への呼びかけです。・・・神は、いつも人類の歴史の中に現存されます。神は、わたしたちを支え助けるために、わたしたちの傍らを歩まれる、「わたしたちと共におられる神です」。主は、わたしたちを決して見放しません。生活の中で、わたしたちが日ごとの歩みの意味を発見できるよう、わたしたちと共に歩んでくださいます。嵐の最中には、いつもわたしたちに手を差し伸べ、危険から救ってくださいます」と励ましの言葉を述べられました。
神の計らいに信頼し、その中にこそ希望が生まれると信じているわたしたちは、この一年、神のご計画はどこにあるのだろうかと識別を重ねています。いのちの危機という困難な状況の中で、また暗闇に彷徨う旅路の中で、教会は「時のしるし」を識別しようと、努力を重ねています。聖母マリアが信仰においてその心にキリストを宿らせたように、わたしたちも信仰に生きる教会にキリストが宿られていることを信じています。また、聖母マリアがその胎にイエスを宿したように、教会も、主ご自身が「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と言われた約束を信じ、教会にキリストが共におられ、歩みを共にしておられることを信じています。神の計らいは暗闇に輝く希望の光です。主は共におられます。