菊地大司教

    週刊大司教第五十六回:待降節第三主日

    待降節も第三主日となりました。伝統的にこの日のミサでは、バラ色(ピンク)の祭服が使われることがあります。喜びを表現するためです。ミサの朗読のテーマも喜びです。もっとも一年に二回くらいしか使わないバラ色(ピンク)なので、所有していない教会も多いかと思いますので、祭服は紫かもしれませんが、心は喜びのピンクです。

    先日、松原教会の主任司祭であるエドガル・ガクタン師が、仙台教区司教に任命された件を記しました。12月8日の無原罪の聖母の祭日に、淳心会(無原罪の聖母の御心の会)会員の司教任命が発表されたことは、意味のある事でした。特別な理由がない限りは、司教叙階式は任命から3か月、着座の場合は任命から2か月で行われますので、来年の3月ころには、仙台で司教叙階式が行われるものと思います。これは仙台教区の正式な発表を待ちたいと思います。

    ところでキリスト教系のニュースなので、外国人司教は3人目と報道されているようですが、実際にはさいたま教区の山野内司教様は、確か国籍がアルゼンチンですから、4人目となるかと思います。もちろん、一昔前は、太平洋戦争直前まで、すべて外国籍の司教様であったわけですし、外国籍の司教が存在することは、いわゆる日本もそうであるところの宣教地では珍しいことではありません。修道会出身の司教も、私を含めてですが、増えました。と同時に、日本の教会を各地で支える存在となっているフィリピン出身の信徒の皆さんのことを思うと、フィリピン出身の司教が初めて日本で誕生したことには、意味があると感じています。ガクタン被選司教様の、これからの活躍に期待しています。

    以下、11日午後6時配信の週刊大司教第56回目のメッセージ原稿です。
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    待降節第三主日C
    週刊大司教第56回
    2021年12月12日前晩

    パウロはフィリピの教会への手紙で、主はすぐ近くにおられるのだから、「主において常に喜びなさい」と諭します。

    ゼファニヤの預言も、「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」と告げて、主が共にいてくださることの喜びを告げます。

    ルカ福音は、救い主を待ち望む民が、力強く真理をあかしする荒れ野の声である洗礼者ヨハネに、期待を寄せる姿が記されています。それに対してヨハネは、自らの先駆者としての立場を明らかにし、さらに偉大な方が来られるという希望を告げます。

    待降節第三主日は、神が共にいてくださることによって生み出される喜びが大きなテーマとなっています。主はどこにおられるのでしょうか。

    今年11月14日の貧しい人のための世界祈願日にあたって出されたメッセージで、教皇様は次のように指摘されています。

    「イエスが明かしてくださる神のみ顔は、実は、貧しい人に向けておられる御父のみ顔、貧しい人に寄り添う御父のみ顔なのです。イエスのすべてのわざが、貧困は運命によるものではなく、わたしたちの中にイエスがおられることの具体的なしるしだということを示しています」

    その上で教皇様は、わたしたちは「(貧しい人の)うちにキリストを見いだし、その代弁者となり、さらに彼らの友となって、耳を傾け理解し、彼らを通して神が伝えようと望んでおられる不思議な知恵を受け取るよう招かれているのです」と指摘されています。

    教会は今、シノドスの歩みを共有しています。「シノドス的教会は、福音を告げながら、「ともに旅をする』」神の民です(準備文書)。ひとつの神の民として、ともに歩んでいることを自覚しようとするとき、私たちは、その神の民とは一体誰なのかをあらためて認識するように招かれています。

    シノドスの準備文書には、振り返りの手引きとしての質問がいくつか掲載されていますが、その最初には、こう記されています。

    「教会でも社会でも、わたしたちは同じ道を並んで進んでいます。皆さんの地方教会では、「ともに旅をする」のは誰ですか。「わたしたちの教会」というとき、誰がその一部でしょう。誰がわたしたちにともに旅をするように頼んでいるのでしょうか。教会の枠の外にいる人たちも含めて、道行く友は誰ですか。明示的に、あるいは事実上、どういう人、グループが周縁部に取り残されているのでしょう」(準備文書)

    そもそも私たちは、一緒になって歩みをともにしていると感じる教会でしょうか。教会は、単なる秘跡の分配所ではありません。ともに秘跡にあずかる共同体です。

    「私たちの教会」には主が現存しておられるでしょうか。わたしたちは何によって共同体へと招かれているのでしょうか。近くにおられる主を探し求めましょう。助けを求め、支えを求め、忘れ去られた人のうちに現存される主を探し求めましょう。主の招きに応えて、主の現存を感じるとき、わたしたちは信仰の喜びに満たされます。互いに支え合い連帯するとき、わたしたちはそこに現存される主によって生かされ、命を生きる希望をいただきます。

    教会は生きています。神の民は常に旅を続け、救いの完成の時を目指して歩み続ける民です。ともに旅する共同体の中で、ともに歩む主に導かれて、霊的に成長してまいりましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功