菊地大司教

    週刊大司教第四十回:年間第二十一主日

    週刊大司教も、今回で通算40回目の配信となりました。ご視聴いただいている皆様の、何らかの霊的な手助けとなっているのあれば、幸いです。現在のような社会の状況ですので、この週刊大司教の配信は、このままの形で、今年の待降節前あたりまでは継続する予定です。その後、同じ形で続けるかどうかは、状況を見ながら考えてまいります。

    なお8月16日から9月12日まで、東京教区では、小教区におけるミサの公開を中止にしています。東京教区でミサの公開中止は、昨年来のコロナ禍にあって、今回が二回目です。公開を中止にしている間は、関口教会の日曜日午前10時のミサを大司教司式ミサとして、配信をいたします。

    週刊大司教は、Youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントから配信されます。このページに入って「動画」というところをクリックしていただくと、過去のすべての週刊大司教やロザリオの祈りをご覧いただくことが出来ます。

    関口教会のミサの配信は、Youtubeのカトリック関口教会のアカウントです。こちらもそのページに到達して「動画」というところをクリックいただくと、過去の大司教司式ミサをご覧いただくことが出来ます。小教区のミサ配信動画は保存いたしませんが、大司教司式ミサに関しては動画を保存してあります。

    なお霊的聖体拝領ではなく、実際に拝領を希望される方は、それぞれの主任司祭にご相談ください。なおカテドラルの関口教会では、以前より、毎週木曜日の午後1時から聖体礼拝を行っていますが、その際にも、司祭にご相談くだされば、聖体拝領が可能です。

    以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第40回目のメッセージ原稿です。
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    年間第21主日
    週刊大司教第40回
    2021年8月22日前晩

    ヨシュア記は、イスラエルの全部族に対して、ヨシュアが決断を求める様子を記しています。主に仕えるのか、またはほかの神々に仕えるのか、それは自由なのだから自分で決断せよと、ヨシュアは民に迫ります。もちろんイスラエルの民は、「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」と応えて、唯一の神への忠誠を誓います。神の偉大な力によって解放された救いの記憶が、心に刻み込まれていたからに他なりません。

    ヨハネ福音は、同じように自己決断を迫るイエスの姿が描かれています。自らをいのちのパンとして示され、ご自分こそが、すなわちその血と肉こそが、永遠の命の糧であることを宣言された主を、人々は理解することが出来ません。多くの人が離れていく中で、イエスは弟子たちに決断を迫ります。「あなた方も離れていきたいか」。

    ペトロの言葉に、弟子たちの決断が記されています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。日本の教会が、長年にわたって聖体拝領の前に唱えてきた言葉の一部です。その前には、マタイ福音の言葉から、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧」が唱えられます。

    わたしたちは、主こそが永遠の命の糧であり、主こそいのちの言葉であり、主こそが真理へと至る道であると信じるように、決断を促されています。救いへと至る命の希望は、主イエスにしかあり得ないと信じるように、決断を促されています。いつまでも共にいると約束されたのは主ご自身であって、ヨシュアがそう迫ったように、わたしたちはそれを信じると決断することも、離れていくことも自由です。

    わたしたちが、主の現存を信じ選び取る決断するためには、イスラエルの民の決断の根底に、エジプトからの解放の記憶があったように、わたしたち自身と主との出会いの体験の記憶が不可欠です。

    それではわたしたちは、一体どこで主と出会うのでしょうか。

    「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」と述べられる主は、生活の現実の中でのさまざまな出会いを通じて、とりわけ神の愛といつくしみを具体的にあらわす出会いを通じて、個人的に出会う機会を与えられます。同時に、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と約束された主は、共同体の交わりの中で出会いの機会を与えられます。しかしそれ以上に、主は御聖体における現存のうちに、わたしたちを個人的な出会いへと招いておられます。

    わたしたちの信仰にとって、キリストとの生きた関係が重要だと、回勅「神は愛」に記された教皇ベネディクト16世は、2011年の主の晩餐のミサの説教で、こう述べています。

    「聖体は、一人ひとりの人が深く主に近づき、主と交わる神秘です。・・・聖体は一致の秘跡です。・・・聖体は主とのきわめて個人的な出会いです。にもかかわらず、聖体は単なる個人的な信心業ではありません。わたしたちは感謝の祭儀をともに祝わなければなりません。主はあらゆる共同体の中に完全なしかたで現存されます」

    主は常に、わたしたちとともに道を歩んでおられます。主は常に、わたしたちを出会いへと招いておられます。その主に留まると言うわたしたちの決断を、共同体の決断を、待っておられます。

    東京大司教タルチシオ菊地功