大司教
週刊大司教第三十五回:年間第十六主日
2021年07月19日
7月18日、年間第16主日となりました。
緊急事態宣言下で、まもなくオリンピック、続いてパラリンピックが行われます。コロナ禍の前には、数年前から、組織委員会と諸宗教団体との間で、選手村に設置される宗教センターで、選手の方々の宗教的必要に応える対応が準備されてきました。これはオリンピック憲章で定められていると聞いています。
されに、オリンピック観戦のために世界中から訪れる方々のために、小教区などでさまざまな対応をする検討を続けていました。組織委員会からの要望に応えるため、また小教区での対応を考えて、東京教区ではオリンピック対応チームを任命し、マルコ神父様を中心に、例えば五大陸のロザリオを準備したり、カテドラルでの国際ミサを企画して準備を進めていました。五大陸のロザリオは、来日する選手と関係者にギフトとして差し上げることも考えていました。
残念ながら、コロナ禍ですべてはご破算となりました。なんと言っても、選手は選手村から出ることが出来ませんし、わたしたち宗教者も選手村には入れません。そこで対応は、組織委員会の要望に応えて、オンラインとしました。教区本部でさまざまなビデオを用意し、それはすべて組織委員会に渡して、その管理下で選手村に提供されます。詳しくは、今週のカトリック新聞をご覧ください。なお五大陸のロザリオは、そのようなわけで在庫が教区本部にあります。ご希望の方は若干の実費等ご寄付頂きますが、教区本部からおわけします。申し込み方法は、今週のカトリック新聞をご覧ください。
また無観客ですので、世界から訪れる方々もおられません。そこで、小教区での特別な対応も必要ではなくなりました。
7月12日から15日まで、司教総会が開催されました。今回はハイブリッドにして、潮見まで来られた司教さんたちと、オンラインの司教さんたちと分かれましたが、分科会を含め、なんとか議題をこなすことが出来ました。決まったことなどは、後日カトリック新聞などに掲載されると思いますので、そちらに譲ります。潮見のカトリック会館の裏手には、得意な形をした辰巳国際水泳場がありますが、その右手に新しいオリンピックプールが出来ました。そこに通うバスを駐車するためか、臨時の駐車場が、カトリック会館裏手の都有地に設けられていました。無事開催されることを祈ります。
東京も梅雨明けしていますが、先日のスコールのような大雨の直後、夕方の空には虹が出ていました。
以下、本日午後6時に配信した、週刊大司教第三十五回、年間第16主日のメッセージ原稿です。
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年間第16主日
週刊大司教第35回
2021年7月18日前晩
エレミヤの預言は、神が愛してやまない人間を、誰かに任せるのではなく、自ら牧者として守り養おうとするその行動を、いつくしみ深い神の「正義と恵みの業」であると記します。
パウロは、エフェソの教会への手紙で、イエスが隔ての壁を取り除き、異邦人とユダヤ人を一つの体に一致させたことを述べ、それが平和の実現であると説きます。まさしく多様性における一致こそが、平和をもたらす道である事が示唆されています。
イエスの時代、エルサレムの神殿において、ユダヤ人以外の異邦人は、「異邦人の庭」と呼ばれた神殿の外庭まで入ることがゆるされていました。そこには「隔ての壁」があったといわれます。そのことから、「隔ての壁」は、ユダヤ人が受ける神の祝福から異邦人は切り離されていることを象徴し、さらに、対立の中に生まれる「敵意」をも象徴していました。
マルコ福音は、先週の続きで、福音宣教に派遣された弟子たちが共同体に戻り、宣教活動における成果を報告すると、イエスは観想の祈りのうちに振り返るように招かれたと記します。
イエスご自身も、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所に出て行かれ、一人で祈られたことが他の箇所に記されています。善い牧者として、義に基づいた神の平和を実現するというご自分の使命をはたす力を、イエスはその観想の祈りから得ておられたのは、間違いありません。
教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」に、「教会の本質は三つの務めによって表されます。神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(回勅『神は愛』25参照)と記します。神のことばを告げ知らせる宣教の前提には、秘跡を祝う典礼や祈りを大切にする共同体がなければなりません。秘跡を祝う共同体は愛の奉仕へと突き動かされていきます。そもそも愛の奉仕とは、主イエス・キリストの生き方に倣い実践することなのですから、わたしたちは祈ることをないがしろにして、愛の奉仕に努めることは出来ません。
教皇フランシスコは、2月3日の一般謁見で、次のように述べておられます。
「祈りもまた行事であり、出来事であり、現存であり、出会いです。まさにキリストとの出会いです。・・・典礼のないキリスト教は、キリストがおられないキリスト教になってしまいます」
東京教区の宣教司牧方針の二つ目の柱は、「交わりの共同体」を育てることです。教会の本質は「交わり」です。信仰の共同体の中に生じる「交わり」は、父と子と聖霊の交わりの神の写し絵です。「交わり」を造りあげ、それを豊かにしてくれるのがわたしたちの共同体で行われる典礼であり、祈りです。多様化した社会にあって、できる限り多くの人をわたしたちの「交わり」へと招き入れるために、典礼を豊かにし、共同体の祈りを深め、そこから福音を告げしらせ、またあかしするための力をいただきましょう。
宣教司牧方針にこう記しました。「わたしたちの信仰は「賛美」と「喜び」に彩られています。そのどちらも人間の想いで始まったのではありません。天上の教会では主イエス・キリストを中心に聖母マリア、諸天使、諸聖人、そして地上のいのちを終えたすべての被造物が天の御父を「賛美」し、「喜び」に満たされています。その「賛美」と「喜び」の声に合わせて地上の教会のわたしたちも神を「賛美」し、いのちの「喜び」を共同体と共に表すのです。典礼と祈りは「賛美」と「喜び」の時であり場面です」
言葉と行いを通じたあかしを、祈りと観想からいただいた力のうちに実践いたしましょう。