大司教

週刊大司教第二十回:四旬節第五主日

2021年03月22日

四旬節も終わりに近づきました。第五主日です。

わたしの前職であった新潟教区では、マキシミリアノ・マリア・コルベ 岡秀太神学生の助祭叙階式が行われました。召命の状況が非常に厳しい新潟教区にとって、久しぶりの叙階式です。岡助祭、おめでとうございます。

東日本大震災が発生してから10年が経過し、この三月末をもって、日本の教会全体での復興支援活動は終わりを迎えます。もちろん10年だからすべてが完了したわけではなく、全国組織体としての活動は終わりますが、教会は東北各地にある教会を通じて、ともに歩む道程を続けていきます。

そういった全国からの支援の窓口として、また活動のとりまとめ役として、仙台教区本部には仙台教区サポートセンターが設置されていました。このサポートセンターも、この三月末でその活動を終了することになります。

全国の教区からの支援をとりまとめるために、司教団は復興支援室を設け、わたしがカリタスジャパンと兼任で責任者を務めてきましたが、その活動も終了です。もちろん実際に復興支援室の活動を支えてくださったのは、大阪教区の神田神父と同じ大阪教区職員の濱口さんでした。お二人の活躍には心から感謝します。カリタスジャパンは活動の資金を確保する役目を担い、復興支援室は全国の教区からの支援(実際には三管区)のとりまとめと調整を行い、どちらも中心となって動いている仙台教区の活動を側面から支えることを心掛けました。できる限りのことは側面からしたつもりですが、もしかしたら邪魔をしたところもあったかも知れません。この10年の活動を支えてくださった皆様と、実際に現場を支えてくださった多くの方に感謝します。

その仙台教区サポートセンターの10年を振り返って、オンラインイベントが、20日午後2時から4時まで行われました。五名の方々が、体験を分かち合ってくださいました。貴重なお話を伺ったと思いますし、語り尽くせぬお話もあったことでしょう。またそれぞれの物語をお持ちの方が、たくさんおいでだと思います。そのもの語りは、大切な宝です。教会のこれからの歩みの力となる、大切な宝です。このイベントは、三月末までは、仙台教区サポートセンターのfacebookページで動画を見ることが可能だということです。

また、現在のコロナ禍にあって、食に関わる活動をしている東京教区のさまざまな活動の一端を紹介するオンラインセミナーが、東京教区災害対応チームの主催で、21午後2時に開催されました。こちらはカトリック東京大司教区facebookページからご覧になることができます。

以下、本日夕方6時に公開した、四旬節第五主日の週刊大司教メッセージ原稿です。
※印刷用はこちら
※ふりがなつきはこちら

四旬節第五主日
週刊大司教第20回
2021年3月21日前晩

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くのみを結ぶ」

四旬節も終わりに近づき、聖週間から御復活のお祝いが視野に入る時期となりました。感染症の状況は継続していますが、充分な感染対策をした上で、復活祭を迎える最終準備を進めたいと思います。

イエスは、間もなく訪れるご自分の受難と死を念頭に置きながら、ご自分の死が多くの人の救いのために必要なのだということを、弟子たちに語ります。

この言葉は、わたしたちに、キリストの弟子としてどのような生き方を選択するべきなのかを、明確に示しています。自分の周りに壁を打ち立て、隣人の必要を顧みずに自分を守ろうとするとき、その種は、実を結ぶことなく朽ちていくことでしょう。

エレミヤは、「わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す」と述べて、新しい契約について預言します。イエスの受難と死を通じて結ばれる新しい契約は、まさしく、自らを捨て、他者のために生きようとする心の姿勢を求めるものであり、それは知識によるのではなく、掟の強制によるのではなく、心に刻まれた神の思いに基づくことなのだと教えます。わたしたちは、イエスが弟子たちに語ったその思いを、心に刻みたいと思います。

パウロはヘブライ人への手紙で、キリストの従順について語ります。苦しみを避けるのではなく、その中に身を置きながら、神の導きに完全な信頼を寄せることによって、キリストは完全な者となり、従う者に対して永遠の救いの源となったと記します。

他者のために徹底的に自分の人生を献げ、困難に取り囲まれる中でも、神の意志に従順であった人物として、聖家族の長である聖ヨセフがあげられます。ちょうどこの3月19日は聖ヨセフの祝日でしたし、また教皇フランシスコは、福者ピオ九世が1870年12月8日に、聖ヨセフを「普遍教会の保護者」として宣言されてから150年となることを記念して、今年の12月8日までを「ヨセフ年」と定められています。

使徒的書簡「父の心で」において、教皇は、「目立たない人、普通で、物静かで、地味な姿の人」である聖ヨセフの内に、「困難なときの執り成し手、支え手、導き手を見いだすはずです」と指摘されます。

その上で教皇は、「ヨセフの喜びは、自己犠牲の論理にではなく、自分贈与の論理にあるのです。この人には、わだかまりはいっさいなく、信頼だけがあります。その徹底した口数の少なさは、不満ではなく、信頼を表す具体的な姿勢です。・・・(主は)、自分の空白を埋めるために他者の所有物を利用しようとする者を拒み、権威と横暴を、奉仕と隷属を、対峙と抑圧を、慈善と過保護主義を、力と破壊を混同する者を拒みます。真の召命はどれも、単なる犠牲ではなく、その成熟である自己贈与から生まれます」と述べています。

許嫁(いいなづけ)であったマリアに起こった出来事とそれに続く神からの呼びかけに対する、聖ヨセフの姿勢は、信仰とは教条的でもなければ、かといって自分勝手なものでもないことを教えています。信仰の本質は自分ではコントロールできないところにあること、そしてそれを受け入れるところにあることを、聖ヨセフの生き方が教えています。

聖ヨセフの模範に学びながら、御復活に向けて、四旬節を締めくくってまいりましょう。