大司教

週刊大司教第二十一回:復活節第二主日

2021年04月12日

復活節第二主日は、ヨハネ・パウロ二世によって、神のいつくしみの主日と定められています。神のいつくしみの主日について、2016年の「司教の日記」に記事がありますので、是非ご一読ください。こちらのリンクから2016年4月3日の「司教の日記」の記事に飛びます

新型コロナウイルスによる感染は終息せず、あらためて検査で陽性になる方が増えているようです。東京教区の一部では、4月12日から一ヶ月間、蔓延防止等重点措置の対象となることが発表されています。教区内の対象地域は23区、八王子市、立川市、武蔵野市、府中市、調布市及び町田市とされ、期間は4月12日(月曜日)0時から5月11日(火曜日)24時までとなっています。

東京都によれば、都民に対しては以下の要請がなされています。(事業者には別途要請があります)

  • 都県境を越えた不要不急の外出・移動の自粛。特に、変異株により感染が拡大して
    いる大都市圏との往来の自粛(新型インフルエンザ等対策特別措置法第24条第9項)
  • 日中も含めた不要不急の外出・移動の自粛(法第24条第9項)
    医療機関への通院、食料・医薬品・生活必需品の買い出し、必要な職場への
    出勤、屋外での運動や散歩など、生活や健康の維持のために必要な場合を除き、
    原則として外出しないこと等を要請
  • 混雑している場所や時間を避けて行動すること(法第24条第9項)
  • 措置区域において、営業時間の変更を要請した時間以降、飲食店にみだりに出入り
    しないこと(法第31条の6第2項)
  • 会食において会話をする際のマスク着用の徹底(法第24条第9項)

東京大司教区としては、また別途公示しますが、これまでの対応を変更はしませんが、対策がすでに長期におよび、慣れや、疲れも見られることから、今一度、感染対策を徹底するように、それぞれの小教区にお願いします。また信徒の皆さん、司祭修道者の皆さんにあっては、今一度気を引き締めて、ともにこの困難な時期を乗り越えていくことが出来るように、互いに支え合い励まし合いながら、務めて参りましょう。

以下、4月10日夕方6時公開の週刊大司教第21回のメッセージ原稿です。
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復活節第二主日
週刊大司教第21回
2021年4月 11日前晩

使徒言行録は、互いに助け合い支え合う初代教会共同体の姿を描き、心と思いを一つにした共同体の有り様そのものが、復活の主をあかしする福音宣教となっていたと指摘します。

使徒ヨハネは、「神を愛するとは、神の掟を守ること」と記し、「わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子どもたちを愛します」と加えることで、神の望まれる生き方をする者は、互いに愛し合い、大切にしあうのだと指摘します。

ヨハネ福音は、有名な弟子トマスの不信仰の話です。結局トマスは信じたのですから、この話を「トマスの不信仰」と言われてしまうのは、トマス自身には不本意でしょうが、実際にはこの話は、愛する弟子をなんとしてでも自らの愛のうちに包み込もうとして手を尽くされる、イエスご自身のいつくしみと愛の深さを見事に表現しています。

イエスは、恐れにとらわれ、扉を閉ざしている弟子たちのもとに現れ、自らがそうされたように、勇気を持って外に出て福音をあかしせよと、弟子を派遣します。そのために弟子たちを、自らのいつくしみと愛で包み込もうとされます。勇気と希望を与えるこのイエスの言葉は、困難を抱え、不安の内にあるわたしたちにも、今日同じように告げられる言葉です。わたしたちは、扉を閉ざして逃げるのではなく、心と思いを一つにして、互いに支え合いながら、勇気を持って福音をあかしするようにと派遣されています。それは罪の枷に縛られ、暗闇の内にとらわれている世界に、解放と希望と光を伝えるためであります。イエスはわたしたちをいつくしみと愛で包み、護ってくださいます。

復活節第二主日は、教皇ヨハネ・パウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められました。「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみと愛に身をゆだね、受けたいつくしみと愛を分かちあう必要を黙想する日であります。

1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。

「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれています」(いつくしみ深い神3)

その上で、「この愛を信じるとは、いつくしみを信じることです。いつくしみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(いつくしみ深い神7)と言われます。

すなわち、「悪と利己主義と恐れの力に負けて」いる人類に、「ゆるし、和解させ、また希望するために」心に力を与えてくれるのは、神の愛であり、その愛が目に見える形で具体化された言葉と行いが、神のいつくしみであると指摘されています。

同時に教皇は、「あわれみ深い人々は幸いである、その人たちはあわれみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神のいつくしみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『いつくしみをもつ』ように命じられている」と、神のいつくしみは一方通行ではなくて、相互に作用するものだとも語ります。(いつくしみ深い神14)

信仰における同じ確信を持って、教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記していました。

「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。」(114)

誰ひとり排除されてもいい人はいない。誰ひとり忘れ去られてもいい人はいない。神の愛を身に受けてそれに包まれ、勇気を持って希望をあかしし、告げしらせてまいりましょう。