菊地大司教

    週刊大司教第十四回:年間第五主日

    あっという間に今年も2月となりました。東京教区の管轄する東京都と千葉県に発出されていた緊急事態宣言は、3月7日まで延長となりました。

    報道によれば『首相は衆参両院の議院運営委員会で、延長に関し「全国の新規感染者数は減少傾向にあるが、今後もこの傾向を継続させ、入院者数や重症者数を減少させる必要がある」と説明』したとのことです。(東京新聞2月2日)

    確かに毎日報道される新規の感染者数は減少していますが、この数週間、亡くなられる方、特に高齢の方が増えているのが気になります。教会はこれまで通り、できる限りの感染対策を続けますし、対策に困難がある場合は、それぞれの小教区の判断でミサの公開を中止にします。

    2月の初めは、大切な祝日が続きました。

    2月2日は主イエス誕生40日目に神殿に奉献されたことを記念する「主の奉献」の祝日です。福音朗読にはシメオン讃歌が記されていますが、この中に「異邦人を照らすまことの光」と幼子がいったい誰なのかを明確に示す言葉あります。このことから伝統的に、この祝日にはロウソクの祝別が行われてきました。またキャンドルサービスの原型ともいわれるロウソク行列が行われる伝統のある国もあります。典礼書の規範版には祝福とロウソク行列の式文が掲載されていますが、翻訳されていないため行われることが少ないのですが、新しい翻訳が出来るときには含まれている予定です。

    その翌日2月3日は聖ブラジオの祝日ですが、この日に伝統的に喉の祝福をする国もあります。ちょうど冬で風邪がはやる時期でもあるので、日本でもやってみたらどうだろうと思います。女子パウロ会のホームページに聖人カレンダーがあり、簡略な聖人伝が記されていますが、そこには聖ブラジオの逸話が次のように記されています。

    「あるとき、幼い息子を持つ母親が現れ、子どもの喉に引っかかった魚の骨を取り除いてくれるように、ブラジオに願った。ブラジオの祈りによって、子どもは咳をし、喉から骨が出てきた」

    ただし、現在この日は日本では、福者ユスト高山右近の記念日となりました。そして2月5日は日本26聖人の記念日です。1597年2月5日に、長崎の西坂で殉教した26名の聖人は、迫害のなかにあっても勇気を持って信仰を守りました。現代に生きるわたしたちに、信仰に生きるとはどういうことなのかを、問いかけています。

    例年であれば、その日に近い日曜日は、本所教会で殉教祭が行われ、わたしも出かけていってミサを捧げるのですが、残念ながら今年はこの状況で、中止となりました。一番上の写真は昨年の26聖人殉教祭で撮影した、本所教会です。

     

    以下、6日夕方に配信した週刊大司教十四回目のメッセージ原稿です。
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    年間第五主日
    週刊大司教第14回
    2021年2月7日前晩

    「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」

    先週のマルコ福音は、神の真理に裏打ちされた権威ある言葉を語るイエスを伝えていました。今週のマルコ福音はその続きです。先週と同じようにイエスは「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」と記されていますから、権威を持って言葉を語り、人々が驚くような業を行っています。弟子となったシモンのしゅうとめの熱をさらせたことを皮切りに、多くの病人や悪霊に取り憑かれた人をいやしていったと記されています。

    マルコ福音がこの話を通じて描こうとするイエスの姿は何でしょうか。もちろん先週と同様、権威あるイエスの姿であるとも言えますが、それ以上に、イエスの愛といつくしみをこの行いは象徴しています。マルコ福音が「病人や悪霊に取り憑かれた者」と記す人たちは、さまざまな困難を抱え、人生を、いのちを生きることに希望を見いだすことが出来ずにいる人たちです。神の愛といつくしみそのものであるイエスは、そういった人々を目の前にしたとき、放置しておくことは出来なかった。いのちをより良く生きることを阻んでいる悪にとらわれている人たちを、解放しました。

    イエスは真理に裏付けられた権威ある言葉を語る強い存在であると同時に、あふれんばかりの神の愛といつくしみを体現する存在でもあることを、マルコ福音は伝えています。

    パウロはコリントの教会への手紙で、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。なんとかして何人かでも救うためです」と記し、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と宣言しています。

    イエスや、それに倣うパウロの姿勢は、高いところから教え導くのではなく、困難を抱え希望を失っている人たちのところへ出向いていき、なんとしてでも神の救いの希望に与ることが出来るようにと手を差し伸べる姿勢です。教皇フランシスコは、そのことを、「出向いていく教会」という言葉で表しています。だからこそイエスは、一つのところに留まって、褒め称えられるのではなく、ひとりでも多くの人に生きる希望を生み出すために、村々を巡って「出向いていく」のです。

    教皇フランシスコは使徒的勧告「愛のよろこび」にこう記しています。
    「大切に思っている人それぞれを、神のまなざしをもってじっくりと見つめ、その人の中におられるキリストに気づくことは、深い霊的体験です。・・・イエスは模範でした。誰かが話そうとして近づくと、イエスはその人にまなざしを据え、愛をもってじっとご覧になったのです。イエスの前でないがしろにされていると感じる人はいません」(323)

    昨年来、感染症の困難の中で、さまざまな側面での生きづらさを抱えておられる方が少なくありません。病気だけでなく、経済や職業や法的身分など、さまざまな側面で困難を抱え、人生を、いのちを生きることに希望を見いだすことが出来ずにいる方、不安の内に生きておられる方がおられます。わたしたちは、イエスのまなざしで「じっくりと見つめ、その人の中におられるキリストに気づく」者でありたいと思います。いのちの希望を生み出すため、ひとりでも多くの人に救いをもたらすため、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と宣言したパウロに倣って、わたしたちも必死になって福音に生き、福音をあかしし、福音を伝えてまいりましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功