菊地大司教

    週刊大司教第九回:主の公現の主日

    新しい年がはじまって3日となります。どのような新年を迎えておいででしょうか。

    2017 年12月16日に東京大司教として着座して以来、東京大司教区における宣教司牧方針を定めようと努めてまいりました。信徒数にしても組織にしても、また内包する修道会の数や諸施設の規模や数にしても、大変大きな教区ですので、そこにはさまざまな課題が存在いたします。東京都と千葉県では、それぞれの都県内でも、地域によって直面する課題は異なります。ましてや現在のコロナ禍です。小教区が直面する宣教の現実は異なっていますし、信徒の方々が感じておられる課題にも大きな幅があります。そういった諸点を包括しながら、宣教司牧方針を定めることは、難しい課題でありました。教区の方針が、わたし個人の考えや興味に基づいた方針では意味がありません。そこで、多くの方の意見を伺いながら識別を深め、検討を進めることにしたのはご存じの通りです。教会には聖霊が働いていることを信じていますから、ご意見は個人ではなく、教会の共同体で検討していただきました。「二人三人がわたしの名のもとに集まっているところに、わたしもいる」と言う主の言葉を信じ、共同体にこそ聖霊が豊かに働いていると信じるていますから、共同体での識別の道を歩みたいと考えました。同時に、その頃にちょうど行われた青年のためのシノドスで、教皇様が複数で分かち合いながら共に道を歩んでいくシノドス的方法を強調されたことにも示唆を受けました。

    さまざまな意見をいただき、それに基づいて識別を深め、最終的に、このたび完成させることが出来、23ページほどの文書となりました。作業は予定よりも時間がかかってしまいました。19年の教皇訪日、さらには今年のコロナ禍で、一年ほど予定より遅れてしまいましたが、多くの方のご協力で、やっと形にすることが出来ました。宣教方針は基本的に大枠を示しているだけです。物足りなく感じられるかも知れません。大枠ですのでその中で方向性を一つにして、具体的な現場での適応は、それぞれの共同体で、これから話し合っていただきたいと思いますし、また教区のさまざまな組織や委員会で取り上げて深めていく課題も多々あります。教区のホームページに掲載してありますので、PDFファイルをダウンロードしてご一読いただけますと幸いです。これから徐々に、具体的な方策を探っていきたいと思います。どうか皆様にあっては、単に協力ではなく、一緒にこの道を歩んでいってくださるようにお願い申し上げます。

    以下、新年最初、第九回となる週刊大司教のメッセージ原稿です。
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    主の公現の主日
    週刊大司教第9回
    2021年1月3日前晩

    皆様、新しい年の初めにあたり、この一年、神様の祝福が豊かにあるようにお祈りいたします。

    新年、明けましておめでとうございます。

    新しい年がはじまりましたが、今年はなんとなく、いつもとは様子が異なるクリスマスと年末年始になりました。昨年初めから今に至るまで続いている新型コロナ感染症は、その実体についてさまざまな意見が表明されており、教会としても対応に苦慮しています。アジアの国々は欧米とは状況が異なっており、感染された方の規模や亡くなられた方の規模が比較的少ないのは事実ですが、その理由は判明しておらず、実際に世界では多くの方が生命の危機に直面しています。国内でも、さまざまな事例が報告され、生命の危機に直面しておられる方も少なくありません。ですから、多くの方が集う教会としては慎重な道を選択し続けざるを得ません。

    昨年一年は、教会においての活動の自粛や、4ヶ月にわたるミサの公開停止など、特に霊的生活において、忍耐を必要とする年となってしまいました。信仰における積み重ねはそれぞれ異なり、今回の事態にあっても一人ひとりの考えには相違があり、ご理解いただくことが難しい制約も多々お願いしたことを大変申し訳なく思っています。同時に、この試練の時にあって、互いへの思いやりの心をもってご協力くださった多くの方々の、寛容と忍耐の心に、感謝いたします。

    占星術の学者たちの言葉を耳にしたとき、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。ヘロデ王の不安はいったいどこから来るのでしょう。救い主の誕生の告知は、本来であれば喜びを持って迎えられたことでしょう。しかし現実に王として人々を支配しているヘロデは、その知らせを喜ぶことは出来なかった。自分をこの世の支配者とするものは、神の支配の実現を前にして、喜びではなく不安しか感じることができません。神の前では、自らの不遜さが暴かれてしまうからです。自分勝手な光を輝かせていることが露呈するからです。

    回勅「ラウダート・シ」に、教皇フランシスコは、次のように記しています。

    「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」

    「いのちにかかわるこれら三つのかかわり」が、引き裂かれてしまう状態が罪だと、教皇は指摘します。人間の傲慢な支配におごり高ぶっている姿が暴かれることで、自らが罪の状態にあることが明らかになってしまいます。そこに不安が生じます。

    占星術の学者たちは、旅路の困難を乗り越え、光に導かれて、救い主のもとにたどり着き、宝物をささげました。闇のなかにあって、輝く光こそが希望を示していることを確信した学者たちは、すべてを神にささげて神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従って行動していきます。

    わたしたちは、今、暗闇の中を彷徨いながら光を求めています。わたしたちは救い主の光に、謙遜に付き従おうとしているでしょうか。それとも自分勝手な光を輝かせようとしているのでしょうか。わたしたちが輝かせるのは、自分勝手な光ではなく、主の光です。

    教会は、人となられた「神の言」が暗闇に光として輝くように、その光を暗闇の中であかしする存在でありたいと思います。この光は、生命の希望をもたらす光です。互いに連帯を強め、主イエスのいつくしみの心に倣い、互いを思いやり助け合う具体的な言葉と行いが、いのちを守っていきます。神の支配に身をゆだね、いのちを守る福音の光を、あかしする一年といたしましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功