大司教

教皇訪日一周年感謝ミサ@東京カテドラル

2020年11月25日

教皇フランシスコの訪日から、一年となりました。ちょうど一年前のこの日、11月25日は、教皇フランシスコが東京で一日を過ごされていました。前日の日曜日、王であるキリストの主日は、長崎と広島を訪問。25日の月曜日は、朝から東北の被災者との集い、皇居で天皇陛下と会談、その後東京カテドラルを訪問し青年との集い。午後からは東京ドームでミサを捧げた後、首相官邸で首相と会談後に政府や外交団にスピーチ。内容の濃い一日でした。

訪日から一年となったこの時期、残念ながら新型コロナウイルス感染症のため、行事を行うことが難しくなりました。司教団も来月12月の初めにシンポジウムなどを計画していましたが、コロナ禍で断念。それでも、教皇がカテドラルを訪れてくださったことを記念し感謝することは大切ですし、またそこで語られた言葉に、あらためて耳を傾け学ぶことも大切ですから、まさしく東京カテドラルを訪問くださったその日に、ミサを捧げることにしました。通常、韓人教会の週日ミサが行われる水曜の10時ですが、関口教会と韓人教会の合同行事として、韓人教会の高神父、関口教会の天本神父、ホルヘ神父が共同司式され、イエスのカリタス会のシスター方が聖歌を歌ってくださいました。ありがとうございます。また当初はスタッフの手配の関係で配信は難しいと思っておりましたが、忙しいところ駆けつけてくださったボランティア(留学先の某国の時間でオンライン授業を終えたばかりの大学生)のおかげで、配信も出来ました。感謝です。

なお司教団としては、12月9日の夕方に、イグナチオ教会で感謝ミサを捧げる予定です(入場制限あり、配信あり)。

教皇が地方の教会を訪れると言うことは滅多にないことですから、教皇の司牧訪問を契機として新しい挑戦を始めたり、記念の何かを建設したりするものだと思います。残念ながら、訪問直後からコロナ禍に突入し、すべてが自粛ムードとなってしまったこともあり、新しく何かを始める状況ではありません。それでも教皇の言葉に刺激を受けて、東京大司教区でも前向きに進み続けたいと思います。今日のミサの説教の終わりで、少しだけそのことに触れさせていただきました。

以下、本日のミサの説教原稿です。
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教皇訪日一周年記念ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年11月25日

一年前の今日、教皇フランシスコをこのカテドラルにお迎えしました。

一年前のあの日、この大聖堂は興奮のるつぼと化していました。そんな中で、入堂された教皇は静かに左手へと進まれ、マリア祭壇の前で御聖体に静かに祈りをささげました。そして祭壇中央へ向かう際には、一番前に陣取った難民青年たちと親しく言葉を交わし、セルフィーで写真まで撮られました。そして待ち受けた聖堂一杯の青年たちに、力強く語りかけられました。

一年前のあの日、この聖堂で語られた教皇の言葉は、アドリブに満ちていて、滞在中一番長いスピーチとなりました。その興奮は、その後に何か新しいことが生まれるのではないかという期待を生み出すものでありました。この聖堂で、青年たちにみなぎる、エネルギーを感じました。

ところが、その後にどうなったのかは、皆さんよくご存じの通りであります。年が明けてすぐ、世界は新型コロナウィルスの感染症に襲われることになり、今に至るまで続いているいのちの危機が始まってしまいました。

人類の歴史に必ずや残るであろうこのコロナ禍は、未知の感染症であるが故に、そのはじめから今に至るまで、わたしたちを不安の暗闇の中へと引きずり込み、その出口が見えないまま、わたしたちは闇の中を光を求めて彷徨い続けています。

教会もその荒波の中で、対応を迫られました。なんと言っても、密接・密集・密閉を避けるようにと呼びかけられているのに、教会はその三つの密のオンパレードですし、ましてや一緒になって大きな声で聖歌を歌ったりいたします。

「いのちを守るための行動を」などという呼びかけが、当たり前のように、行政のリーダーたちの口から発せられています。そういえば、一年前の教皇訪日のテーマは、「すべてのいのちを守るため」でありました。「いのちを守る」は、今や教会の専売特許ではなくなりました。違いがあるとすれば、わたしたちは「すべての」と加えることによって、教皇フランシスコが常に示してきた、誰ひとり排除されない世界、忘れられて良い人は誰ひとりいないという姿勢を明確にしているところでしょうか。

一年前のあの日、教皇はこの聖堂で、集まった青年たちにこう語りかけられました。
「夢を見ない若者がいます。夢を見ない若者は悲惨です。夢を見るための時間も、神が入る余地もなく、ワクワクする余裕もない人は、そうして、豊かな人生が味わえなくなるのです。笑うこと、楽しむことを忘れた人たちがいます。すごいと思ったり、驚いたりする感性を失った人たちがいます。ゾンビのように心の鼓動が止まってしまった人たちです」

コロナ禍の闇の中を彷徨っているわたしたちは、不安にとりつかれています。世界は、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独を深めています。まさしく「すべてのいのちを守るため」に、わたしたちは行動しなければならないと感じさせられます。

この社会を目の当たりにして教皇は、神のいつくしみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する姿勢を示してこられました。とりわけ教会が、神のいつくしみを具体的に示す場となるようにと呼びかけてこられました。

一年前のあの日、この聖堂に集まった青年たちを前にして、「夢を見ない若者」の話をした教皇は、その理由をこう指摘されました。
「なぜでしょうか。他者との人生を喜べないからです。聞いてください。あなたたちは幸せになります。ほかの人といのちを祝う力を保ち続けるならば、あなたたちは豊かになります。世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人がなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔の見えないことがほとんどな社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います」

同じ日の午後、東京ドームのミサの説教では、次のように述べています。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました」

同じ日の朝、東北の被災者との集いでも、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べ、人間関係の崩壊が社会における孤立や孤独を生み出し、ひいては神からの賜物であるいのちを危機にさらしているのだと指摘されていました。

教皇フランシスコの語られる「出向いていく教会」は、神の言葉が人となられてわたしたちのうちにおいでになったという救いの業の行動原理に倣う、教会のあるべき姿を表しています。

教皇は青年たちに、こう呼びかけました。
「次の問いを問うことを習慣としてください。『何のために生きているかではなく、だれのために生きているのか。だれと、人生を共有しているのか』と。」

教皇訪問を受けて新しく出発しようとしていた日本の教会は、いまアイデンティティの危機に直面しています。なにぶんこれまでは、日曜日にできる限りたくさんの人が教会に集まってくれるようにと働きかけてきたのです。少しでもミサに参加する人が増えることが、宣教の成功の一つの指標だったのです。言うならば、わたしたちは、日曜日に教会に集まることで、教会共同体となっていたと思い込んでいたのでした。

それが物理的に集まることが難しくなった今、わたしたちは教会共同体というのはいったい何のことだろうかと自問させられています。集まらなくても繋がっている共同体というのは、いったい何のことなのだろうと考えさせられています。わたしたちは何のためにこの社会に存在しているのかを、あらためて見つめ直させられています。

わたしたちは昨年の教皇の呼びかけを思い起こし、「何のために生きているかではなく、誰のために生きているのか。誰と人生を共有しているのか」を、あらためて見つめ直してみたいと思います。

ちょうど、教皇訪日の前から、東京教区の宣教司牧方針の見直しの作業を進めておりました。訪日の準備と、その後のコロナ禍で、策定作業は遅れておりましたが、まもなく文書をお示しできるところまでこぎ着けました。あまり難しいことや、事細かな指針を作成することは辞めました。大枠を示すための、短くて分かりやすいものを提示したいと思います。

その中で、昨年の訪日で残された教皇様の呼びかけを具体化するために、特に一つのことを実現したいと考えています。それは、教区の中でのさまざまな社会への奉仕活動、愛の活動がありますが、それらを一つに集約する組織を作りたいと思います。名称はどうなるか分かりませんし、まだ模索中ですが、いわゆる教区のカリタスであります。現在、社会奉仕活動においてもっとも活躍しているCTIC・カトリック東京国際センターを核にして、社会活動を集結する組織を実現することで、教皇の残された言葉に応えていきたいと思います。