菊地大司教

    年間第二十四主日@東京カテドラル

    年間第24主日となりました。

    9月8日に駐日教皇大使ジョゼフ・チェノットゥ大司教様が帰天されました。76歳でした。大使は、すでに昨年役職の定年を過ぎておられましたが、教皇訪日の準備にあたるために延長されておられ、2011年10月に来日されてからほぼ9年という、長い在任となりました。教皇訪日の準備には心身共に疲れられたことと思いますが、年明けには楽しみにしておられた休暇での故郷インド訪問も、新型コロナ感染症のために取りやめとなり、東京の大使館で自粛生活が続いておりました。そのなか、5月8日早朝に自室で倒れられ、駿河台日大病院で緊急手術を受けられました。脳梗塞と聞いていますが、倒れたときにさまざまな損傷を受けた模様で、複雑な手術が数回続きました。残念ながら、現在の感染症の状況の中、面会は大使館関係者に限定されておりました。その後、意思の疎通も可能になってきたことから、8月初めに聖母病院へ転院。なんとか車椅子でもインドへ帰ることが出来るようにと懸命な闘病生活が続きました。故郷のインドの親戚の方も来日することも出来ず、最後はオンラインでなんとか見舞いをすることが出来たとうかがいました。

    葬儀はインドの故郷で行われますが、その前に日本でも追悼ミサを行う予定で調整中です。なにぶん現役の外国大使の帰天ですので、日本政府も関わる調整となります。日時については決定次第、大使館から公表されるものと思います。またこういった状況ですから、多くの方に参列いただけませんので、インターネット中継も行われる予定です。

    大使は、2011年来日直後、仙台で開催されていた日本と韓国の司教団の集いに出席され、一緒に石巻を訪問されました。そのときからいまに至るまで、東北の復興には常に思いを寄せてくださいましたし、それを教皇様にもしばしば伝えてくださいました。そういった配慮が、昨年の教皇訪日にあって、教皇様ご自身から、東日本大震災の被災者との集いを行いたいというリクエストとなりました。

    また教皇大使の重要な役割の一つが、司教選任手続きにありますが、チェノットゥ大使の最初の選任手続きは札幌の勝谷司教でした。ちょうどそのときわたしが札幌教区の使徒座管理者を兼任していましたので、何度も何度も、丁寧なやりとりを重ねたことを覚えています。

    チェノットゥ大司教の長年の教会への貢献と信仰のあかしに、御父が豊かに報いてくださいますように。R.I.P.

    また今朝ほど入ってきたニュースでは、福音宣教省長官で前のマニラ大司教であったタグレ枢機卿が、所用でマニラに到着した際、空港で受けた検査で新型コロナ陽性となったとのこと。症状はないとのことですから、安心しましたが、枢機卿の健康のためにお祈りください。

    東京教区では、現在の検査陽性者などの状況から、感染対策のステージは変更しないものの、いくつかの制限を変更することを検討しており、最終調整中です。9月14日月曜日の午後に、公表いたしますのでお待ちください。ただし、まだ慎重な対応は不可欠だと思いますので、大きな緩和は難しいと思われます。

    以下、本日土曜日の夕方6時から関口教会の主日ミサ(公開配信)で行った、ミサ説教の原稿です。
    ※印刷用原稿はこちら
    ※ふりがなつきはこちら

    年間第24主日
    東京カテドラル聖マリア大聖堂
    2020年9月13日前晩

    「あわれみ豊かな神をイエス・キリストは父として現してくださいました」

    教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅「いつくしみ深い神」は、この言葉で始まります。

    その上で教皇は、社会をさらに人間的にすることが教会の任務であるとして、こう指摘します。
    「社会がもっと人間的になれるのは、多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成しているいつくしみ深い神を持ち込むときです。(14)」

    本日の第一朗読であるシラ書も、マタイ福音も、ゆるしと和解について記しています。

    自分と他者とのかかわりの中で、どうしても起こってしまう対立。互いを理解することが出来ないときに裁きが起こり、裁きは怒りを生み、対立を導き出してしまいます。シラ書は、人間関係における無理解によって発生する怒りや対立は、自分と神との関係にも深く影響するのだと指摘します。他者に対して裁きと怒りの思いを抱いたままで、今度は自分自身が神との関係の中でゆるしをいただくことは出来ない。

    当然わたしたちは、神の目においては足りない存在であり、神が望まれる道をしばしば外れ、繰り返し罪を犯してしまいます。そのたびごとに神に許しを請うのですが、神はまず、自分と他者との関係を正しくせよと求めます。ゆるしと和解を実現しなければ、どうして神にゆるしを求めることが出来るだろうかと、シラ書は指摘します。

    マタイは、借金の帳消しに関わる王と家来とその仲間の話を持ち出し、イエスの言葉として、「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と言う言葉を記しています。もちろん490回ゆるせばよいという話ではなく、七の七十倍という言葉で、ゆるしの限りない深さを示します。

    なぜゆるし続けなくてはならないのか。それをパウロはローマの教会への手紙で、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」と記すことで、わたしたちの人生は、主ご自身が生きられたとおりに生きることが目的なのだと指摘します。

    そして、わたしたちが倣おうとしている主イエスは、自らの命を奪う者を十字架上でゆるすかたであり、まさしくヨハネ・パウロ二世が言われるように、「あわれみ豊かな神を・・・父として現して」くださる方です。ですからわたしたちは、あわれみ・いつくしみそのものである神に倣い、徹底的にゆるし、和解への道を歩まなくてはならず、それはわたしたち一人ひとりの性格が優しいからではなくて、主イエスに従うのだと人生の中で決めたのだからこそ、そうせざるを得ないのであります。

    わたしたちはこのところ、どちらへ進んだらよいのか迷い続けるはっきりとしない状況の中に取り残されているような思いを抱いています。感染症の事態は終息はせず、今日もまた、懸命にいのちを守るため努力を続ける医療関係者の方々がおられます。医療関係者の働きに敬意を持って感謝すると共に、迷い続けながらも、やはりいのちを守るために慎重な行動をとりながら、わたしたちもともに最善の道を模索し続けていきたいとおもいます。

    人生には不確定要素がつきものだとはいえ、いわば五里霧中のような状態が続けば続くほど、わたしたちは不安が増し、心に壁を築き上げ、自分を守ろうとするがあまり、人間の身勝手さが社会の中で目につくようになってしまいます。

    自粛警察などという言葉も聞かれましたが、他者の言動に不寛容になるのは、自分の世界を守ろうとする心の壁を強固に築き上げているからではないでしょうか。徹底的に異質なものを排除し、心の安定を得ようとするのは、それだけ心に余裕が失われているからではないかと思います。攻撃的な声もそこここに聞こえてきます。感染症に限らず、例えば暴力的な行為の被害を受けた人に対する攻撃的な言動には、理不尽さを越えて、いのちに対する暴力性すら感じさせられます。わたしたちは、心を落ち着けて、何を大切にしなくてはならないのかを、今一度心に思い起こしたいと思います。

    東京ドームでのミサ説教で、教皇フランシスコは、「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」と指摘されました。

    またこのカテドラルに集まった青年たちに、「恐れは、つねに善の敵です。愛と平和の敵だからです。優れた宗教は、それぞれの人が実践している宗教はどれも、寛容を教え、調和を教え、いつくしみを教えます。宗教は、恐怖、分断、対立を教えません。わたしたちキリスト者は、恐れることはないと弟子たちに言われるイエスに耳を傾けます。どうしてでしょうか。わたしたちが神とともにおり、神とともに兄弟姉妹を愛するならば、その愛は恐れを吹き飛ばすからです」と呼びかけられました。

    長期にわたる感染症の事態のなかにあって、あらためてこの教皇の言葉を思い起こしたいと思います。いまわたしたちに必要なのは、愛と平和のための行動であり、いつくしみという判断基準です。

    もっとも、神のいつくしみは、ただただ優しければよい、何でもかんでも咎めることなくゆるせばよいと言っているわけでもありません。何でもゆるされて、何をしても良いというのであれば、この社会に共同体は存在できません。わたしたちは、ただばらばらになってしまうだけだからです。七の七十倍のたとえは、犯した罪の責任を免除するものではありません。

    教皇ヨハネ・パウロ二世は、回勅「いつくしみ深い神」にこう記しています。
    「出し惜しみしないでゆるす要求が、正義の客観的諸要求を帳消しにするわけではないことは言うまでもありません。・・・福音のメッセージのどのあたりを見ても、ゆるしとか、ゆるしの源泉であるいつくしみは、悪とか人をつまずかせることとか、損害をかけ侮辱したりするのを許容するゆるしというような意味ではありません。どんなときでも、悪とか、人をつまずかせたこととかは償い、損害は弁償し、侮辱は埋め合わせをするのがゆるしの条件となっています。(14)」

    他者の言動を裁くのは、常にわたしたちにとって大きな誘惑の一つです。特に不安と不確実さが社会を支配するとき、その原因を求めて他者を裁いてしまう誘惑が増大します。教会共同体の中にさえ、互いを裁く傾向があることは、何年も前から指摘されてきたことでした。わたしたちは常に、裁きの共同体ではなく、ゆるしと和解の共同体になりたいと思います。

    教皇フランシスコの指摘です。「必要なのは、自分の過去を振り返って祈り、自分自身を受け入れ、自分の限界をもって生きることを知り、そして、自分をゆるすことです。他者にも同じ姿勢でいられるようにです。(「愛のよろこび」107)

    いつくしみそのものである神に倣い、互いにゆるしと和解を実現し、神の正義に支配される社会の実現を目指していきましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功