大司教

年間第二十二主日@東京カテドラル

2020年08月30日

8月もあと数日で終わりに近づき、今月最後の日曜日は年間第22主日となります。

次週、9月6日の日曜日は、被造物を大切にする世界祈願日と定められています。教皇フランシスコは、2015年に回勅「ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に」を発表され、全世界の人に向けて、「私たちの共通の家」という総合的な視点から、エコロジーの様々な課題に取り組むことを呼びかけられました。その上で教皇は、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではこの世界祈願日を9月最初の主日と定めています。

また今年から、昨年の教皇訪日を受けて、9月1日から10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」とすることも決められています。関連メッセージは教区ホームページに掲載しましたが、この月間のための祈りも用意され、カードが配布されています。なお教区本部広報担当では、アジア司教協議会連盟(FABC)の人間開発局(Office for Human Development)が用意した資料に基づいて、この月間のための毎日の「日毎の祈り」を、順次ホームページに掲載する予定です。
※「日毎の祈り」はこちら

この数日も東京では、PCR検査の陽性者数が一定程度、継続して報告されています。今回の感染はピークを越えたと言う専門家の指摘もありますが、いましばらくは推移を見守り、慎重に判断したいと思います。従って、8月30日から9月6日までの一週間も、これまで通りの感染対策を持って教会の活動を継続していきます。

以下、8月29日(土)午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、関口教会の主日ミサの説教原稿です。
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年間第22主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年8月30日前晩

わたしたちは、人生の道程を歩むとき、常に選択を迫られて生き続けています。人生の歩む方向を大きく変えてしまうような重大な選択もあれば、日々の生活の中で次に何をするべきなのかと言った小さな選択まで、ありとあらゆる選択に直面しながら、わたしたちは人生を歩み続けています。

新型コロナの感染症がなかなか終息する気配を見せない中、教会もこの数ヶ月間、様々な選択を迫られ続けてきました。中でも、わたしたちの信仰生活の中心であり、共同体のきずなの見える形でもある主日のミサを、続けるべきなのか中止するべきなのか。その選択は、簡単な決断ではありませんでした。教会はこれからも当分のあいだ、一番大切な聖体祭儀に関して、難しい選択を迫られることになるだろうと想定しています。

教会にとってご聖体の秘跡は「教会生活の中心に位置づけられます」と指摘されたのは、教皇ヨハネ・パウロ二世でした。(「教会にいのちを与える聖体」3)

単に教会に集まって祈りの時を一緒にできないということに留まらず、聖体祭儀にあってご聖体のうちに現存されている主イエスと一致するという信仰生活の根幹を、教会が自ら放棄することが許されるのだろうか。聖体の秘跡は単なる象徴ではなく、「信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧」であり、「もっとも貴重な宝」であります(「教会にいのちを与える聖体」9)。それを簡単に手放すことなど出来るわけがありません。わたし自身の霊名でもある聖タルチシオのように、命を賭けて御聖体を守りながら殉教していった信仰の先達も多くおられます。

教会全体において、こういった緊急事態に遭遇したときにどうするのかを定めた規則はありません。世界中の司教さんたちが、同じことを考え、悩んだことと思いますが、わたし自身もさまざまな対応を考えながら、いろいろ思いつく度に、今日のマタイ福音のことばが頭に浮かびました。

「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」

昨年の東京ドームで行われたミサで、教皇フランシスコは説教の最後にこう指摘されました。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。」

教皇フランシスコは、教会はいのちの福音を告げるための野戦病院であれと言われます。そうであるならば、教会は、困難な状況にあっても、扉を閉ざすことなく祈りの共同体として続けるべきではないのか。ミサを止めようなどと言うのは、恐れをなした人間の弱さに基づく判断ではないのか。そう思い悩みました。いまでも悩み続けています。

同時に教皇フランシスコは、わたしたちには判断の基準があるともいわれます。同じ説教の中で、「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」と指摘されていました。すなわちわたしたちは、神のいつくしみという視点から判断した場合に、どういう道を選択するべきなのかを考え、よりふさわしい道を識別しなくてはなりません。

教皇ヨハネ・パウロ二世は回勅「いつくしみ深い神」の中で、こう記しています。
「イエスはとくに生き方と行動を通して、わたしたちの住むこの世の中に愛のあること、行動となる愛、人間に声をかけ、人の人間性を作り上げているすべてを抱きしめる愛のあることを露わにされました。この愛が特に気づかれるのは、苦しみ、不正、貧困に接するときです」

その上で、教皇は、「愛が自らを表す様態とか領域が、聖書のことばでは「あわれみ」と呼ばれています(3)」と指摘します。

すなわち教会はいま、苦しみに接するときにこそ、イエスの模範に倣って、その生き方と行動を通して、愛があることをあかししなくてはなりませんし、その愛のあかしこそは、「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれると言うことになります。

神のあふれんばかりのいつくしみは、たまものであるいのちへの愛として表されていることを考えれば、現在の混乱を極めている危機的状況の中で、神のいつくしみという基準からの判断は、いのちを最優先することに他なりません。

たまものであるいのちを守ることを最優先にして、教会は、危機に直面する中での一連の選択を行ってきましたし、その対応が大げさに過ぎるという指摘も受けることがありますが、現在の状況の中でいのちを守ることは、最優先の選択です。

同時に、それでもなお教会は野戦病院であることを止めることも出来ません。わたしたちは、いまのような状況にあっても、「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院」であり続けなくてはなりません。それはすなわち、これまで存在しなかった新しい方法で、野戦病院となる道を探らなくてはならないことを意味しています。わたしたちは、知恵を絞りながら、これまでの前例に縛られることなく、神の望まれる道を実現するための道を見いだす努力を続けていかなくてはなりません。

教皇フランシスコは、「教会を老けさせ、過去に執着させ、停滞させ、動かないものにしてしまうものから、解き放たれていられるように主に願いましょう(35)」と使徒的勧告「キリストは生きている」に記しています。

いま、この困難な状況に直面する中で、教会は様々な選択を迫られています。同時にそれが、信仰をより良く生きるための振り返りの機会をも生み出しています。これまで通りにすべてをつつがなく進めようという誘惑から解き放たれ、教会が教会らしく、常に若さにあふれた教会となるための道を選択する機会を与えられています。

「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とパウロがローマの教会に呼びかけたように、わたしたちもまた、この状況の中だからこそ、「何が神の御心であるか」をじっくりと時間をかけながら識別する時を与えられています。

神の道を探し求めながら、信仰をよりふさわしく生きる道を選び続けましょう。