大司教
復活徹夜際@東京カテドラル
2020年04月12日
御復活、おめでとうございます。
今年の復活祭は、これまでと全く異なる復活祭となりました。ミサはいろいろなところで捧げられたと思います。東京カテドラル聖マリア大聖堂でも捧げられました。しかし、東京教区ではすべてのミサが非公開でした。司祭と、少数の修道者と、中継をしたところではそのスタッフと、ほんの少数の方が参加。多くの方は、自宅に留まって、そこで祈りを捧げたり、中継ミサにあずかったりされたことと思います。祈りの内に、皆が一致できているように、願っています。
聖マリア大聖堂も、普通は予備の椅子も入れれば、千人近く入る大きな空間ですが、そこに少数の司祭団と、構内と近隣のシスター方数名、歌を歌ってくれたイエスのカリタス会シスターと志願者。志願者には、中継前のベンチの消毒もお願いしています。しかも聖堂内のベンチはすべて2メートル近く離して設置し直し、普通は4人座るところに一人だけにしていただき、司祭団もすべて互いに2メートル近く離れ、司式者とか歌唱者以外は、マスクを着用してもらいました。加えて、暖房を切り(内気循環になるので)、横の扉二つを開放してあるので、内陣あたりには常に風が吹いています。特に聖金曜はそうでしたが、説教中に、わたしが、原稿を飛ばされないように押さえているところが、映像に残っていました。がらんとした聖堂で、感染予防に極力気をつけながら、それでも典礼の荘厳さを保つように、バランスを考えて努力しているつもりでおります。
典礼は、今回の事態にあたり、バチカンの典礼秘跡省から出た指針に従い、ロウソクの祝福や行列を止め、朗読の数を絞り、洗礼式などをなくしてあります。典礼での注意や中継の難しさについては、後日お話しします。
一日も早く事態が終息するように、病気と闘っている人たちに復活の主イエスの癒やしの手が差し伸べられるように、日夜闘っている医療関係者に守りの手が差し伸べられるように、祈りたいと思います。
以下、昨晩の説教の原稿です。
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復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年4月11日
皆様、主イエスの御復活おめでとうございます。
暗闇に光り輝く復活のロウソクは、わたしたちの希望の光です。
その希望は、キリストがもたらす新しいいのちへの希望です。暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心で感じながら、わたしたちは新しいいのちに招かれ、また生かされていることをあらためて思い起こします。
いつもの年であれば、、キリストと出会った多くの方が、準備の期間を経た上で、復活徹夜祭で洗礼を受け、新しいいのちの旅路を歩み始め、教会共同体の一員として迎え入れられます。
今年は洗礼式が延期となってしまった洗礼志願者の方が、ほとんどであろうと思います。大変残念に思っています。
目に見える形で共同体にお迎えできないのですが、しかし、皆さんの「キリストに従って生きたい」という願い、「キリストの体の一部となるのだ」という熱意が、洗礼志願者の皆さんをすでに教会共同体の一員としています。今夜、洗礼を予定されていた皆さんを、兄弟姉妹として、そして仲間として、喜びのうちに教会共同体へお迎えしたいと思います。
残念ながら、今年は、日本を含め世界各地において、この大切な夜を、多くのキリスト者が、そして多くの洗礼志願者が、聖堂ではなく、自宅で過ごさざるを得なくなっています。
実際に皆で集まることが難しいいまだからこそ、信仰のきずなによって互いが一つに結ばれていることを思い起こしましょう。わたしたちは、「古い自分がキリストと共に十字架に付けられ」、「キリストと共に生きることに」なりました。そのキリストは、数多くいるキリストではなく、唯一のキリストです。わたしたちは、どこにいたとしても、常に一つのキリストの体に結びあわされていることを、思い起こしましょう。
それぞれの場で捧げる今宵の祈りは、ともにキリストの体を作り上げる兄弟姉妹としての連帯へと、わたしたちを招きます。弟子たちを派遣する主が約束されたように、主は世の終わりまで、いつも共にいてくださいます(マタイ28章20節)。暗闇に輝く希望の光である復活された主は、わたしたちを見捨てることはありません。主の約束に信頼しながら、一つのキリストの体にあずかる者として、互いを思いやり、支え合いながら、困難に立ち向かいましょう。
死に打ち勝って復活された主イエスは、新しいいのちへの希望を、わたしたちに与えています。困難な状況の中にあるからこそ、わたしたちは孤独のうちに閉じこもることなく、連帯のきずなをすべての人へとつなげていき、死を打ち砕き、いのちの希望を与えられるキリストの光を、社会の中で高く掲げたいと思います。
先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストとともに新しいいのちに生きるために、その死にもあずかるのだと強調されています。
すなわち御復活のお祝いとは、信仰の核心である主の復活という出来事を喜び祝うだけに終わるものではありません。わたしたちは、キリストにおいて、新しいいのちに生きるものとなるように、その死と復活にもあずかるために、あらためて具体的な歩みを始めるようにと求められています。だからこそパウロは、わたしたちはいま、「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」と記します。わたしたちには、立ち止まらず、歩み始めることが求められています。
先ほど朗読された出エジプト記には、モーセに対して語られた神の言葉が記してありました。
「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。」
モーセに導かれて奴隷状態から逃れようとしたイスラエルの民は、強大な権力の前で恐怖にとらわれ、希望を失い、助けを求めて叫ぶばかりでありました。
神は、モーセに、行動を促します。前進せよと求めます。ただ闇雲な前進ではなくて、神ご自身が先頭に立って切り開く道を、勇気を持って歩めと、告げるのです。
復活の出来事を記す福音書は、復活されたイエスの言葉をこう記しています。
「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。」
イエスを失った弟子たちは、落胆と、不安と、恐れにとらわれ、希望を失っていたことでしょう。
恐れと不安にとらわれた弟子たちに対して、「立ち上がり、ガリラヤへと旅立て」とイエスは告げます。新しいいのちを生きる希望の原点に立ち返り、旅路を歩む勇気をあらたにするようにと告げています。
主の死と復活にあずかるわたしたちに求められているのは、安住の地にとどまることではなく、新たな挑戦へと旅立つこと、そして苦難の中にあっても、先頭に立つ主への揺らぐことのない信仰にあって、勇気を得ながら、困難に立ち向かい、歩み続けることであります。
たったひとりで、歩み続けるのではありません。わたしたちは、ひとりで信仰を生きているのではなく、キリストの体である共同体のきずなのうちに信仰を生きています。いまこそそのきずなが必要です。
困難な状況の直中で、いのちの危機に直面しているわたしたちは、すべてのいのちを守るために、勇気を持って前進を始めるように、招かれています。
この事態を終息させるために様々な立場で感染症と闘っている方々、特に政治のリーダーたち、医療専門職の方々、実際に病気と闘っている患者のみなさんのために祈りましょう。いのちの希望を掲げることができるように、祈りの力で連帯しましょう。
いのちを守るために、日夜懸命に努力をされているすべての人の上に、神の守りがあるように、祈りましょう。
また社会的状況や経済的状況によって、いまいのちの危機に直面しているすべての人のために、祈りましょう。
イスラエルの民の先頭に立って、奴隷状態から解放された神が、わたしたちを善なる道へと導いてくださるように、祈りましょう。
復活された主イエスが、わたしたちに勇気を与え、共に助けあっていのちを守る道を歩み続けることができるように、祈りましょう。
神からの賜物であるいのちが守られるように、いまこそわたしたちの祈りと連帯と心配りが必要です。復活された主イエスの、新しいいのちへの希望の光が必要です。