菊地大司教

    御復活の主日@東京カテドラル

    御復活おめでとうございます。

    4月12日午前10時、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた、御復活の主日ミサには、いつものように司祭と神学生とシスター方だけが参加。撮影スタッフは信徒の方3名。日中ですので、何名かの方が聖堂の中に入られようとしましたが、大変申し訳ないが、お断りしました。別途記しますが、感染予防の趣旨を是非ともご理解いただきたいと心から願っています。

    また、今日のミサには、毎日新聞とNHKの取材が入りました。

    以下、本日のミサの説教の原稿です。
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    復活の主日
    東京カテドラル聖マリア大聖堂
    2020年4月12日

    皆様、主イエスの御復活おめでとうございます。

    今この瞬間にも、世界中で、そして日本でも、多くの人がいのちを守ろうとして、いのちを救おうとして、力を尽くしておられます。感染が拡大し続け、いったいいつまでこのような状態が続くのだろうかと、先行きを見通すことが難しい中で、なんとかいのちの危機を食い止めようと努力する人たちの存在は、希望の光です。医療従事者に感謝し、その健康のために祈ります。

    いのちを守るための闘いが続いている直中で、わたしたちは、新しいいのちへの復活という、わたしたちの信仰にとって、最も大切な出来事を記念し、祝っております。いのちを守る行動が、これほどまでに注目され、その価値が強調された四旬節と復活祭を、経験したことがありません。

    多くの人が、とりわけわたし自身を含めた医学の素人が、今年の初め頃には、事態がこんなに大事になるとは思っていませんでした。世界中で段々と深刻さの度合いが増すに連れて、危機感を強めてこられた方も多いと思います。わたし自身も、一月半ば頃から今に至る三ヶ月間、東京教区をあずかる立場にあってどういう判断をするべきなのか、悩みました。医療の専門家にも何度も相談をしました。的確で時宜を得たアドバイスをいくつもいただきましたが、同時に専門家の間でも、事態のとらえ方が異なり、様々な意見があり、難しい選択を迫られて困惑することもたびたびありました。

    まだ終息に至っていない現時点で、その決断の可否を判断し評価することはできませんが、教区全体で公開のミサを中止にするという判断は、簡単に到達した結論ではありません。その判断が、一〇万を超える東京教区の信徒の方に及ぼす影響を考えたとき、いのちを守るためにとるべき最善の道はどこにあるのか、逡巡を重ねてきましたし、今でも毎日、刻々と変化する状況を目の当たりにして、次の決断へと悩む日々が続いています。

    しかし常に念頭に置いているのは、神からあたえられた賜物であるいのちを守るために最善の道を探ることであり、同時に、信仰のうちに神への信頼を失わない道を探求することであります。

    人類は今、いのちの危機に直面していると言っても過言ではありません。人類全体に影響を及ぼすいのちの危機は、凄まじい強力な伝染病や、星の衝突や、巨大地震や火山の噴火といった天災ではなく、たいしたことのない風邪のようだと当初は言われた、ウイルスによってもたらされました。大混乱をもたらす災害によっていのちの危機が明白に生じるのではなくて、知らないうちに感染しそれが知らないうちに拡大し、いまは危機的状況なのだと何度も自分に言い聞かせなければ忘れてしまいそうな弱々しい形で、わたしたちに迫ってきました。

    これまでの歴史の中でわたしたちが築き上げてきた世界が、大げさな言い方かも知れませんが、これほど簡単にいわば存亡の危機に直面するとは、思ってもみませんでした。

    今般の感染症の拡大という理不尽な出来事は、混乱と恐れと悲しみをわたしたちにもたらしていますが、同時に、少し立ち止まって、今までの世界の歩みを見つめ直し、新しい世界へと変わっていく道を探るよう、わたしたちを促しているようにも思います。

    教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」にあるように、わたしたちはいのちを守るために、総合的なエコロジーの観点から、地球環境問題をはじめとした人間のいのちを取り巻く様々な課題に取り組むことが必須であると議論を続けていました。

    わたしたちの共通の家をまもり、将来の世代によりふさわしい環境を残していく責任を果たすためには、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか」といった問いに答えていかなければならないと、教皇は回勅で呼びかけます(160)。

    わたしたちは、現時点では、感染症の前にまさしくなすすべもなく、途方に暮れていのちの危機に直面しています。加えて、この事態が、人類の歴史の中で、今回が最後であると、いったい誰が断言できるでしょうか。わたしたちは、自らの存在の意味を、あらためて問い直すように、招かれています。

    コリントの教会への手紙に、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」という言葉が記されていました。

    復活された主の新しいいのちへと招かれている教会には、常に新しいいのちを生きるために、その立ち位置を過去に固定させ留まることなく、前進し続けることが求められています。

    実際、今般の出来事によって、聖堂に共に集い、聖体祭儀にあずかって、キリストの体における一致を体験することができなくなっている教会は、半ば強制的に、そのあり方を変革するように求められています。

    聖体祭儀がその中心であることには何も変わりがないものの、それができなくなっている今、世界中の教会は、共同体のきずなを確認し深めるために、様々な手段を講じています。このようにインターネットを通じてミサを中継している教会も多くありますし、講座や祈りを、配信し始めたところも少なくありません。日本だけではなく、世界中です。司祭や信徒が個人で発信を始めている例も少なくありません。

    心の避難所である教会の存在は、どの時代にも重要です。祈りを捧げる聖なる場所も信仰には必要です。共同体の皆と共に、一緒に賛美を捧げる場所は、わたしたちにとって欠かすことができません。わたしたちの信仰は、共同体の信仰です。ですから教会に集まると言うことが、消滅してしまうわけではありません。

    しかし、今回の事態はわたしたちに、目に見えない教会共同体のきずなを深めることの大切さ、そして目に見えない教会共同体のきずなは、毎日の家庭や社会での生活にあってもつながっていることを、あらためて自覚させてくれました。すなわち、わたしたちの信仰は、日曜日に教会に集まってきたときにだけ息を吹き返すパートタイムの信仰ではなくて、教皇フランシスコがしばしば指摘されるように、フルタイムの信仰であることを、思い起こさせてくれています。

    インターネットで様々な場所からのミサの中継があることで、選択肢が増えたと喜んでおられる方もいるのかも知れません。

    違うのです。

    インターネットを通じて、教会が皆さんの毎日の生活の中にやってきたのです。教会は生活とかけ離れた存在ではなくて、毎日の生活の中にあるものとなったのです。教会は特別なところではなくて、普段の生活の一部となろうとしています。

    教会は、社会から隔離された避難所ではなく、社会の荒波の直中にある一艘の船です。港に繋がれている船ではなくて、荒波に乗りだしている船です。

    同じ船に乗っている仲間として、そのきずなをあらためて確認し、いのちの危機に直面している世界の直中で、復活された主イエスの新しいいのちへの希望を、光り輝かせる新しい教会となりましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功