大司教

四旬節第四主日@東京カテドラル

2020年03月22日

インターネットで配信した、3月22日、四旬節第四主日のミサの説教原稿です。東京カテドラル聖マリア大聖堂は、大聖堂と地下聖堂とも、音声を収録することに困難がつきまとっています。備え付けのマイクからの音声と、聖堂内の全体の音声などのバランスを調整しながら収録することがとても困難で、例えば教皇様の来日の際のように、独自の機材を大量に持ち込めば良いのですが、残念ながら突発的な出来事でしたので、教区の予算の制約もあります。できる限り機材を購入しながら、少しずつ改善しているところですが、準備が整えば、大聖堂からの配信もできるように、主任の天本神父以下取り組んでくださる信徒のボランティアの方々と、鋭意挑戦中です。

ミサの導入

四旬節第四主日は、伝統的に、このミサに固有の入祭唱が、イザヤ66章の「神の民よ、喜べ、 神の家を愛するすべての者よ、ともに集え」という言葉からとられていることで、レターレの主日とかバラの主日とも呼ばれています。復活祭の喜びへと旅を続けるわたしたちに、まもなく訪れる希望の光を先取りする形で、キリストの光にあずかるようにと招いている主日です。

困難な時期にあって、事態の一日も早い収束と、病気にあって苦しまれている人たちの回復を祈りましょう。また治療のために日夜取り組んでおられる医療専門家の方々や研究者、今回の事態にあって社会的に経済的にいのちの困難や危機に直面している多くの方々の上に、いつくしみ深い神の手が差し伸べられるように、祈りましょう。

共同祈願の導入

四旬節は復活祭に洗礼を受ける準備をされている方々にとって、心を整える最終的な準備の期間です。四旬節第四主日は、荒れ野の中を旅するような苦しみの中で信仰を見つめ直し、洗礼への準備を進める旅路にあって、まもなく洗礼を言う喜びのときが近づいていることを心にとめる、喜びの主日でもあります。残念ながら、今年は小教区での主日のミサが行われていないため、洗礼志願者の方々にあっては、まもなく訪れる喜びを、共同体のなかで実感していただくことができません。

洗礼は個人的な出来事にとどまらず、教会共同体に迎え入れられること、すなわち、キリストの体の一部となることでもあります。四旬節の主日のミサにおいて、教会共同体が洗礼志願者のために祈るのは、共同体に迎え入れられるという出来事を、信徒も志願者も、互いに実感するためでもあります。

本日のミサには、それぞれの場から映像を通して参加されている洗礼志願者の方もおられることと思います。教区の共同体全体が、皆さんのために祈り、また皆さんを兄弟姉妹として共同体に迎え入れる日を、心待ちにしています。本日の共同祈願の中でも、洗礼志願者の方々のために祈り、また終わりには洗礼志願者が、「やみから光に移り、暗闇の力から解放」され、「光の子として歩むことができ」るように、「解放を求める祈り」を唱えます。

それでは、光の源である神に心を開いて祈りましょう

説教の原稿
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四旬節第四主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年3月22日

わたしたちは、厳しい挑戦を受け続けながら、今年の四旬節を過ごしております。教会の歴史の中では初めてではないのだろうと思いますが、しかし、私を含めて多くの方が,信仰生活の中でこれまでに体験したことのない事態に遭遇し,困惑しています。

四旬節は、洗礼の最終的な準備をしている洗礼志願者と歩みをともにしながら、キリストに従うわたしたちが、信仰を振り返り、イエスとの出会いの原点に立ち返ろうとする季節です。感染症の拡大が要因とはいえ、その四旬節中にミサにあずかることができず、また御聖体のうちに現存される主との一致の機会も霊的な拝領に限定され、黙想会などを通じて信仰を見つめ直す機会もなくなってしまったことは、わたし自身非常に残念ですし、教区に対してそのような判断をせざるを得なかったものとして大変心苦しく思っております。

もちろんミサがないことだけで、わたしたちの教会共同体が崩壊してしまったわけではありません。この危機的な状況に直面する中で、あらためて、わたしたちは信仰によって結ばれている兄弟姉妹なのだという意識を、さらにわたしたちは共に、同じキリストの体を形作っているのだと言う意識を、心に刻んでいただければと思います。

祈りのきずなによって結ばれて、共に困難に立ち向かう兄弟姉妹として信仰の内に連帯しながら、この暗闇の中で、いのちの源であるキリストの光を輝かせましょう。

わたしたちは、暗闇の中に取り残されて、一人で信仰をまもろうとしているのではありません。わたしたちは、神から与えられた賜物であるいのちを共に生きているように、物理的に離れていても、たとえ皆が集まることに困難があったとしても、同じ信仰の内にあって共に祈ることで、一緒になって力を合わせて信仰をまもっています。

パウロはエフェソの教会への手紙の中で、わたしたち一人ひとりに、主に結ばれて「光の子として歩みなさい」と呼びかけます。その「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じる」と記されています。

わたしたちは、暗闇の中で疑心暗鬼に苛まれている社会にあって、キリストの光を輝かせ、「善意と正義と真実」を生じさせるように努めたいと思います。

パウロは同じ手紙の中で、わたしたちが光の子として先に光を輝かせるのではなく、まず「キリストはあなたを照らされる」と記しています。しかし、そのためには条件があるとも記されています。それはその言葉の直前にある、「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ」と言う言葉に示されています。

わたしたちはキリストからの光の照らしを受けたから立ち上がることができるのではなくて、わたしたちが、立ち上がるからこそ、そこに結果としてキリストの光が照らされるのだ、というのです。すなわち、わたしたちが光の子として輝くためには、キリストからの光の照らしが必要であって、その照らしを受けるためには、わたしたちの主体的な行動がまずなければならないのです。

ヨハネの福音では、シロアムの池で癒やされた盲人の話が記されています。もちろん冒頭で、イエスは土をこねて盲人の目に塗るのですが、そこで本人の行動を促します。

「シロアムの池に行って洗いなさい」

盲人は自ら行動することによって、癒やしをえるというキリストの光に照らされることになるのです。そして、さらには、福音には、「帰ってきた」と記されています。すなわち、キリストに導かれながら自ら行動したことによって光に照らされた盲人は、その光の源であるキリストから離れることはなかった、キリストの光の内にとどまったということです。

その一連の行動を、律法の規程に背いているとして咎め立てるファリサイ派の人たちは、キリスト光の内にとどまることのない人の姿を現しています。

自らの常識やプライドにがんじがらめにされているため、目の前で起こっている事実を、自分の世界の枠組みの中でしか理解することがありません。その目には、キリストの光は届いていないのです。

福音の中では、ファリサイ派の人たちとイエスとの立ち位置の違いが象徴的に描かれています。イエスは外に立っている者として描かれ、ファリサイ派の人たちは自分たちの場所の中にとどまっているように描かれています。目の不自由な人は、翻弄されながら、その間を行き来しています。

キリストの光は、自分たちの殻に閉じこもり、常識とプライドの中に安住を求めている中の人たちには届いていません。そこには、善意と正義と真実が欠けてしまっているのです。

とはいえ、ファリサイ派の人たちが、取り立てて悪人であると断罪することは、わたしたちにはできません。なぜならそこに描かれている姿は、わたしたちそのものでもあるからです。わたしたちは、個人としても共同体としても、自分の思いや社会の常識や長年の伝統やプライドを優先させて、時としてそれを守ることに力を傾けてはいないでしょうか。

積極的に出向いていく教会の姿を説き続ける教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージにこう記しています。

「主への回心の時期や方法を司るのは自分だといううぬぼれた思い違いで、この恵みの時を無駄に過ごすことのないようにしましょう」 

その上で教皇は、「イスラエルの民のように荒れ野に導かれましょう。そうすれば、花婿であるかたの声をついに聞き、その声を心のうちで、より深く意欲をもって響かせることができるでしょう。そのかたのことばにすすんで関わればそれだけ、わたしたちに無償で与えられる主のいつくしみをますます味わえるようになります」と述べています。

さらに教皇は四旬節メッセージにこう記します。

「イエスにおいて、神の熱意は、ご自分の独り子にわたしたちのすべての罪を負わせるほどに、また教皇ベネディクト十六世が述べたように、「自らに逆らう神のわざ」となるほどまでに高まります。神はまさに、ご自分の敵さえも愛しておられるのです」

わたしたちの旅路の主役は、光であるキリストです。わたしたちを愛するがあまり、先頭に立って十字架を背負い、わたしたちを導いてくださるキリストです。自分という殻を打ち破って外へと出向き、行動するように促すキリストです。

わたしたちはこのキリストに、ひとりでつき従うのではなくて、神の民として、共同体としてつき従っています。それは光の子として、わたしたち一人ひとりが、そして共同体全体が、この世界に「あらゆる善意と正義と真実」を生じさせるためであります。神が求められる世界を実現し、神の声に身をゆだね、神の愛を分かち合うために行動する共同体となるためであります。

困難な状況の中にあって、互いに祈りの内に結ばれて、キリストを証ししていく者となることができるように、招かれる主に従って一歩先へと歩み続けたいと思います。