菊地大司教

    四旬節第三主日@東京カテドラル

    四旬節第三主日にあたる今日、東京教区ではこのミサを、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」のミサとしてささげます。

    聖職者による性虐待の罪にゆるしを願い、被害を受けられた方々の心のいやしのために祈り、同じ過ちを繰り返さない決意を新たにするために、教皇フランシスコは、全世界の司教団に向けて、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を設けるように通達され、日本では「四旬節・第二金曜日」と定めました。今年は3月13日ですが、東京教区ではその次の主日に、この意向でミサを捧げることにしています。

    すべてのキリスト者とともに、傷ついた被害者の方々の悲しみと苦しみをおもい、いやしと回復の恵みのために、いつくしみ深い神に祈り、また、全世界の教会が同じ過ちを繰り返すことのないように、神のゆるしと導きを祈りましょう。

    説教の原稿
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    「性虐待被害者のための祈りと償いの日」
    東京カテドラル聖マリア大聖堂
    2020年3月15日

    「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
    先ほど朗読された福音では、実際に、のどの渇きをいやす水について話すサマリアの女に対して、イエスは、自らの存在がもたらす永遠のいのちについて語っています

    自らをいのちの水として語られる主イエスに従う教会は、つねに「いのちの福音」を語り続けています。人間のいのちは、神から与えられた賜物であるが故に、その始まりから終わりまで、例外なく尊厳をまもられ尊重されなくてはならない。教会はそのように主張し続けています。

    教皇ヨハネ・パウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという現代社会の思い上がりを戒めながら、そういった現実を「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を実現しなければならない。

    回勅「いのちの福音」の冒頭に、こう記されています。
    「いのちの福音は、イエスのメッセ-ジの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への『良い知らせ』として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません」

    さらに教皇ヨハネパウロ二世は、この回勅において「殺してはならない」と言う神のおきてを取り上げ、こう述べています。

    「『殺してはならない』というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても、一人ひとりに拘束力を持っています。そのおきては、創造主である神が人類との間に結んだ最初の契約を告げる響きとして、すべての人の道徳的良心にもう一度響き渡ります(77)」

    キリストに従うわたしたちの心には、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声が響き渡ります。

    残念なことにわたしたちが生きている社会にあっては、神からの賜物であるいのちが危機に直面し続けています。いったいわたしたちは、人間のいのちをどのような価値観に基づいて判断しているのかを、大きな疑問を抱かせるような事件も相次ぎました。

    障害と共に生きておられる方々を、社会に貢献しなければいのちが存続する意味はないとして、暴力的にいのちを奪う事件もありました。

    この数年、せっかく与えられたいのちを生きている幼子が、愛情の源であるべき親や保護者の手で虐待され、命を暴力的に奪われてしまう事件もしばしば耳にします。様々な事由から、誕生することのなかったいのちも少なくありませんし、様々な要因に絡め取られる中で自死へと追い詰められる人も、多くおられます。

    また社会全体の高齢化が進む中で、孤独のうちに人生を終える方々の存在もしばしば耳にいたします。誰にも助けてもらえない。誰からも関心を持ってもらえない。孤立のうちに、いのちの危機へと追い詰められていく人たちも少なくありません。

    さらには、雇用環境の厳しさの中で、不安定な生活を送る若者も増えています。加えて、海外から来日し、不安定な労働環境の中で、困難に直面している人たちにも、出会うことが増えてきました。

    危機にさらされるいのちの現状、教皇ヨハネ・パウロ二世が指摘する「死の文化」が支配する現実の中で、教会こそは、「いのちの福音」を高く掲げ、わき出るいのちの水を多くの人に届ける努力をしていなければなりません。

    その教会にあって聖職者には、神の賜物である尊厳あるいのちを守るために最善を尽くす義務があります。牧者として自らが神の民の先頭に立ち、「いのちの福音」をその言葉と行いを持って証しする義務があります。

    残念ながら、その模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という他者の人格を辱め人間の尊厳を蹂躙する行為におよび、いのちの尊厳をおとしめる事例が、過去にさかのぼって多数報告されています。

    それは、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声に耳を閉ざしてしまう行動です。神が、自ら愛される人間を、いのちの水が豊かにわき出る泉へと導こうとしているときに、枯れ果てた空の井戸へと導こうとする行動です。性虐待は、被害を受けられた方の人格の否定であり、尊厳あるいのちを与えてくださった神への挑戦です。

    さらには大人による保護を必要とする未成年者に対する性虐待や、暴力行為を行った聖職者の存在も明らかになっています。

    加えて司教をはじめとした教区や修道会の責任者が、聖職者の加害行為を隠蔽したり、その被害を過小評価した事例も、世界各地で多数指摘されています。

    日本の教会も例外ではなく、聖職者から性的な虐待や暴力行為を受けた事例があります。とりわけ被害者が未成年であった場合、深い苦しみと大きな葛藤のなかで、何十年も経ってからはじめて、その事実を公にできたという方もおられます。

    そのような深い苦しみと大きな葛藤を長年にわたって強いてきた聖職者の加害について、被害を受けられた皆様に、心からお詫びいたします。

    教会がこの世界にあって、枯れた井戸ではなく、いのちの水を湧き出させる泉になるように、この世の組織としての教会のあり方を真摯に反省し、神の国の実現のために資する共同体へと育てていかなければならない。いまはそういう「とき」であると思います。

    そして、虐待の被害に遭われた多くの方が心に抱いている傷の深さに思いを馳せ、ゆるしを願いながら、その心の傷にいやしがもたらされるように、教会はできる限りの努力を積み重ねる決意を新たにしたいと思います。

    教会は、いのちの福音を語り、神のいつくしみと愛を語り、すべてのいのちを守ることを語り続けています。そうであるからこそ、「人間のいのちを尊び、愛し、守り育て」よという神の声に心を閉じることなく、いのちの尊厳を、一人ひとりの人格の尊厳を守りぬく道を、先頭に立って歩み続ける存在でありたいと思います。

    東京大司教タルチシオ菊地功