大司教

四旬節第二主日@東京カテドラル

2020年03月11日

3月8日、四旬節第二主日ミサは、前週に続いてインターネットで配信させていただきました。

すでに昨日発表いたしましたが、公開のミサの中止については、3月15日以降も当面の間継続いたします。また3月中の主日にあっては、主日のミサにあずかる義務を、東京教区のすべての信徒の方を対象に免除しています。先日も触れましたが、これに関連して、是非とも教会の五つのおきてを見直してみるチャンスとなさってください。

ミサのインターネット配信は、これで完璧なものではありませんが、3月15日以降も継続する予定です。映像制作に関わってくださる関口教会の天本神父様と信徒の方々、また協力してくださっているドミニコ宣教女会、師イエズス会、イエスのカリタス会のシスター方にも感謝します。

なお3月15日のミサは、性虐待、償いと祈りの日の特別ミサです。

なお本日3月11日は東日本大震災被災者の方々のため、また復興のため、さらに3月13日には教皇フランシスコの選出7年ですので教皇様のために、特にお祈りください。

以下、ミサ説教の原稿です。
※印刷用はこちら
※ふりがなつきはこちら

四旬節第二主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年3月8日

あと数日で3月11日、すなわちあの東北での大震災発生から9年が経過しようとしています。

9年前、地震と津波発生から数日後の3月15日に仙台へ駆けつけ、被害の大きさに驚きながらも、しかし数年もすれば地域の生活は元に戻るだろうと勝手に想像していました。

確かにインフラの整備など社会の大枠としての地域復興は、順調に進んでいるように見えることは間違いがありません。しかし、教皇フランシスコが昨年11月の東北の被災者との集いで、特に福島の現状に関連して言われた、「地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ」、本当の復興は成し遂げられないのだという言葉が、心に重くのしかかっております。

まもなく9年を迎えるのを前に、あらためて東日本大震災で亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈るとともに、あの日以来、予想外の人生の物語を刻んでこられたすべての人が、神のいつくしみ深い御手によって包み込まれることを祈ります。

教皇フランシスコは、東京での被災者との集いの中で、こう述べておられます。
「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。」

教皇は、本当の復興のためには「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠」だと述べられました。もちろんいのちをつなぐために衣食住を整え支援することは重要です。しかし教皇は、それだけでは十分ではないと指摘されているのです。衣食住の充足に加えて、「希望と展望の回復」が不可欠だと指摘されています。

希望や展望は自然に生まれてはきません。希望や展望は、誰かがどこからか持ってきて与えることができるものでもありません。希望と展望は、人と人とのつながりの中で、心の中から生み出されていくものです。

教会は、この9年間、人と人とのつながりの中で、希望と展望を生み出すための努力を続けてきたのではないかと、わたしは思っています。わたしたちの復興支援の一番の柱は、人と人とのつながりの中で、希望と展望を生み出す努力であったと思います。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、こう述べています。
「出向いていきましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いていきましょう」

教会は、神が私たちのいのちを愛しているというメッセージを伝えるために、出向いていかなくてはならないと、教皇フランシスコは繰り返し主張されます。

本日の第一朗読では、アブラムが新しい土地へ出向いていくようにと、主から呼びかけられた模様が描かれています。
「生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」

「生まれ故郷、父の家」は、アブラムにとって、安住の場です。しかしこの段階で「私が示す地」とは、いったいどこなのか、どんなところなのか、全く情報が与えられません。暗闇に手探りで乗り出すようにと言われているようなものです。しかしアブラムは、「主の言葉に従って旅だった」と記されています。主の呼びかけに信頼して、未知へと旅立ったのです。それは単に思いつきではなく、アブラムの心に培われた信仰における神への信頼が、その決断の土台となっていました。

パウロは、神がわたしたちを招き入れているのは、「わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによる」と記しています。
神によって招かれている旅路の主役はわたしたちではなく主ご自身であるのだから、その計画に信頼して身をゆだねよという呼びかけです。

それではその、わたしたちが信頼するべき神の計画はどこにあるのか。その神の計画は、福音書にあるように、御父が「私の愛する子、私の心に適うもの、これに聞け」と言われた御子イエスの言葉と行いに明示されています。

わたしたちは、ただ闇雲に出ていってさまよい続けるのではなく、わたしたちが信頼するイエスの言葉と行いに導かれながら、歩みを続けます。そのためには、わたしたち自身が日々の祈りを通じて、また教会共同体の典礼や祈りを通じて、「私の愛する子、私の心に適うもの」と主が言われた、御子イエスの言葉と行いに耳を傾け、それに倣わなければなりません。その上で、恐れることなく、神がすべての人へその愛といつくしみの手を差し伸べようとしている事実を伝えるため、出向いていく教会でありたいと思います。わたしたちはその旅路の中で多くの人と出会い、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹」となりたいと思います。

教皇は『福音の喜び』において、「すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めている道を識別しなければなりませんが、わたしたち皆が、その呼びかけにこたえるように招かれています。つまり、自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」と、呼びかけておられます。

教会には、社会の直中にあっていくつもの役割があると思います。もちろん、一人ひとりの心の安らぎの場として、静寂と聖性のうちに、神と出会い神と対話する場でもあります。一人ひとりのその出会いを、祈りのうちに、また聖体祭儀において深める場でもあります。また聖体のうちに現存されるイエスとの出会いと、また聖体拝領を通じて、内的にキリストと一致する場でもあります。

しかし同時に教会は、主イエスが「諸国民から呼び集められた自分の兄弟たちを自分のからだとして神秘的に構成した」、キリストの体でもあります。

さらに教会は、「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるし、道具」であると、教会憲章は記しています。

キリストご自身が、神であり人であるように、教会にも目に見える教会と諸聖人との交わりにある霊的共同体があり、現実社会にあっても教会には私的側面と公的側面があります。

わたしたちはこの社会にあって、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹」として、社会に出向いていく教会でありたいと思います。希望と展望を生み出す源となりたいと思います。

わたしたちは出向いていく教会として、つねに立ち上がり旅立つように御父から呼びかけられている神の民です。旅立つ準備はできているでしょうか。神の計画を優先させる決意はあるでしょうか。「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹」となる心づもりはできているでしょうか。

神の言葉に耳を傾けながら、ふさわしい道を選択することができるように、聖霊の導きを祈りましょう。