教区の歴史

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主にささげる24時間・終了ミサ説教

2016年03月05日

2016年3月5日 四旬節第4主日・18時 東京カテドラルにて

[聖書朗読箇所]

説教

昨晩の午後7時に始まった「主にささげる24時間」は間もなくこのミサで終了します。本当に恵みの時間をわたしたちは頂きました。
昨晩、まずわたしたちは導入の講話を聞きました。そのお話しは主として「放蕩息子の譬え話」についてでありました。今ささげている四旬節第4主日のミサの福音も「放蕩息子」の話であります。「主にささげる24時間」は「放蕩息子」で始まり、「放蕩息子」で終わります。
この話、だれでも知っている有名な話でが、わたしの生涯でも、今回ほどこの話について集中して黙想したことはないように思います。
この話には三人の登場人物がおります。お父さん、二人の息子、兄と弟です。この三人三様の心の動きをわたしたちはどのように受け取ることができるでしょうか。
まず弟です。この弟の気持ちはよく分かるような気がします。
このまま家にいても仕方がない、どこか遠くに行って一旗揚げよう、どこかで好きなように暮らそう、と考えたのでしょう。
お父さんがまだ生きているのに生前贈与を願い出るとはなんと親不孝で愚かなことでしょうか。世の中、そんなに甘いものではありません。彼はたちまち放蕩の限りを通して全財産を失います。おりしも飢饉が起こり、屈辱的な仕事である「豚の世話」をさせられます。
このどん底の状態に陥って初めて彼は「我に返った」のです。自分の惨めさを痛感しました。ああ、自分はだめな男だ、情けない、と思いました。自分で自分を認めることができない、という気持ちです。
人生は困難です。人は失敗し挫折します。その時、この弟のような気持になることがあります。
ですから弟の気持ちは理解できます。恥ずかしさと自己否定の気持ちに苛まれます。この時になってやっと父の家を思い出します。自分の居るべきところは父の家ではないか。帰ろう。しかしもう自分は息子と呼ばれる資格はない、と自覚します。こんなみっともない自分は到底息子であることはできない、せめて雇人の一人にしてもらおう。
さて、父の方は、弟の自由を尊重し、愚かな弟の願いを聞き入れました。弟が出て行ってから、毎日弟の身の上を心配していました。父の心は弟を失った悲しみで一杯でした。弟はかけがえのない大切な存在です。
父は弟の帰りを日々ひたすら待っておりました。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(15:20)
この父の態度に違和感を持つ人は少なくはないでしょう。これは「甘やかし」ではないでしょうか。懲らしめが必要ではないでしょうか。償いを課すべきではないでしょうか。
兄はそう思ったのではないでしょうか。そこで怒って家に入ろうとしませんでした。兄には父の気持ちが理解でません。兄は自分の弟を「あなたの息子」という冷たい言い方で呼んでいます。弟が居ないのは寂しい、という喪失感がないのです。居てもいなくともどうでもよい、いや居ない方がいい、くらいの存在でしかありませんでした。
この兄の気持ちもわたしたちは理解できるように思います。そしてこの父親のような、「手放し」の待遇は問題ではないか、と感じます。
この三人のなかで一番わかりにくいのが父の気持ちです。
父は弁明して兄に言います。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(15:32)
父は自分にとって大切な存在との交わりの回復の喜びを表明しています。自分の痛みは癒され、自分の心の大きな空白が満たされた喜びを表明しています。父にとって、弟は無条件に愛おしい存在なのです。自分から離れて行ってもその愛は止むことはなく、むしろより深くより強くなりました。
この譬え話は「放蕩息子の譬え」と言われていますが、主役は「いつくしみ深い父」であります。わたしたちは自分をどの人に重ねてこの話を受け取るべきでしょうか。
イエスのメッセージは、「いつくしみ深い神は、正にこの譬え話の父のように、あなたがたをいつくしみ深く愛してくださっています。あなたがたもいつくしみ深いものでありなさい」ということだともいます。これこそイエスがすべての人に伝えたいメッセージであると思います。このイエスの思いをわたしたちはどのくらいわかっているでしょうか。
わたしたちは、どんなに道を踏み外しても、失敗しても、罪ある身、惨めで恥ずかし自分でも、神にはそれは関係なく、ありのままでわたしたちを受け入れる、喜んで受け入れてくださるのです。父の家にはわたしたちの場所があります。わたしたちの存在自体が大きな喜びなのです。そのように自分は大切なものなのです。
神の愛=アガペーはわたしたちの罪と弱さの現実を突き抜けて、わたしたちを守り癒してくださいます。
それはなかなか信じがたいことです。この自分にそんな価値があるのでしょうか。この世界は数量で人間の価値を評価しています。自分はその周囲の期待に応えるのはあまりにも遠い状態にあります。こんなわたしを神はゆるし受け入れているのか。
本来の自分、それは神のもとにいる自分です。神はわたしの存在を喜んで下さるのです。この信仰がわたしたちを支え励まします。

今日の第二朗読でパウロは呼びかけています。
「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(2コリント5・20)
父の家に帰りましょう、父はいつでもわたしたちを赦し受け入れてくださいます。

この度の「主に献げる24時間」に参加してくださった皆さんに心から感謝します。結びにあたり、そのお礼に、次の旧約聖書の言葉、わたくしがいつも思い出し励ましを受け取っているみ言葉をプレゼントしたいと思います。

「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。」
                  (知恵11・23-26)