教区の歴史

教区の歴史

平和旬間2015 武蔵野南宣教協力体「平和を願うミサ」説教

2015年08月07日

2015年8月7日、荻窪教会にて

[聖書朗読箇所]

説教

きょうの第一朗読で次のように言われています。

「今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる。」(申4・40)

このように命じられた神は、これを実現するための道標として、十戒をイスラエルの民に授けました。そして十戒の中の第五戒が「殺してはならない」(申5・17)です。

すべての人間はこの掟を守るよう求められています。しかし人類の歴史が示すように、その遵守し、実行することは困難でした。歴史上、殺人と戦争は決して絶えることなく続いています。

人は何故人を殺し、また戦争をするのでしょうか。殺意とは、人の心の中に生まれます。物欲、不安、恐怖、憎悪、敵意などの心の動きが人を殺人や戦争へと駆り立てるのではないでしょうか。

わたしは平和旬間を迎えるといつも、昔、中学生のときに知った『ユネスコ憲章』の言葉を思い出します。

「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」

平和を樹立するためには心の中に「平和のとりで」を樹立しなければなりません。それは言い換えれば、「心の武装解除」ということです。


この「心の武装解除」という言葉は司教団の戦後50年の平和メッセージ『平和への決意』の中に出てくるのです。

「わたしたちが目指す平和は、キリストの十字架と復活によって実現した神と人類との和解に土台を置いた平和です。信仰者としてのわたしたちの平和への歩みの中心には、キリストがおいでにならなければなりません。それは、キリストとの一致、キリストの支えと導きによっては初めて可能となることです。・・・それは、キリストこそ、罪によって互いに憎しみ分裂するわたしたち人間の心に愛の火をともし、心の武装解除をなさしめ、傷ついた心をいやし、人類一致と恒久平和のための内的基礎を築いてくださるかただからです。(『平和への決意』3 平和実現に向かって)

人間の本能は自分の身体を防御し、攻撃されれば反撃します。恐怖を覚えれば、攻撃される前に相手を殲滅して、恐怖感を払拭しようとさえするのです。誰しもこの本能的な恐怖と敵意に襲われることを免れ得ないのです。

それに打ち勝つためこそキリストの教えと生き方があります。

イエスは言われました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16・24-25)

十字架を背負うということは人間の本性に反することです。わたしたち人間は、安全と快適、健康な生活を希求しています。十字架は自然の人間には嫌悪の対象でしかありません。

しかし、イエスをとおして示された神の愛は、敵への愛であり、赦す愛です。

この神の愛を受けてわたしたちは心の中に「平和のとりで」を築き、心の中で「武装解除」ですることができるようになるでしょう。

平和旬間にあたり、平和を実現する人となるために、聖霊の恵みを祈りもとめましょう。