菊地大司教

    レジオマリエ創設100周年感謝ミサ@東京カテドラル

    2021年12月15日

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    レジオマリエがアイルランドで創設されてから、100年となりました。

    東京のレジオマリエの皆さんと、感謝ミサを12日の午後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げました。ミサは指導司祭である淳心会のオノレ・カブンディ神父様を始め、関係する神父様方も多数参加してくださり、150名ほどが参加されました。

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    東京のグループ(東京レジア)には、田園調布、松原、板橋、吉祥寺、初台、豊島、葛西、麻布、さいたま教区の川越、上尾、、大田、高崎、渋川、横浜教区の由比ヶ浜、鶴見、山手、雪の下、大船、静岡、逗子、平塚、茅ヶ崎、中和田、戸塚、百合ヶ丘、二俣川、藤沢、末吉町、仙台教区の元寺小路、四ツ家、松木町、一本杉、などの教会のメンバーが参加し、そのほかさいたまの松が峰、新潟の新潟、高田、柏崎などにも休会中のグループがあると聞いています。これに加えて東京韓人クリアも韓人教会にあります。(記載漏れがある場合はご容赦ください)

    メンバーの高齢化も言われますが、聖母を通じて聖性の道を歩む大切な信徒の活動ですので、今後も力強く継続していくことを願っています。

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    以下、12月12日午後2時から捧げられたミサの、説教原稿です。

    レジオマリエ100周年感謝ミサ
    東京カテドラル聖マリア大聖堂
    2021年12月12日

    レジオマリエが始まってから100年という時間が経過しました。東京教区において、レジオマリエの活動に参加し、聖母マリアを通じて聖性への道を歩んでおられる皆様に、心からお祝いを申し上げると共に、これまで、レジオマリエの活動を支え育ててくださった信仰の先達に感謝したいと思います。

    レジオマリエは1921年9月にアイルランドで始まったと伺っています。すべての恩寵の仲介者である聖母マリアの導きに従うレジオマリエは、信徒使徒職の先駆者として、教会の福音宣教に大きく貢献してきました。教会にとって、聖母マリアを通じて祈るという聖なる伝統は、教会が教会であるために不可欠だとわたしは思いますので、これからも、形が変わっていくのかもしれませんが、レジオマリエの活動をさらに深め、発展させてくださるように願っています。

    教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)と記しておられます。

    ここで教皇様が、「マリアという生き方」が福音宣教にとって重要な姿勢であるという指摘をされていることに注目したいと思います。「マリアという生き方」とはどういう生き方でしょうか。

    教会のカテキズムには次のような指摘があります。「マリアは、しみやしわのない花嫁としての教会の神秘、つまり、その聖性を、私たちすべての者に先立って現しました。『教会のマリア的な面がペトロ的な面に先立っている』のはこのためです。(カテキズム773)」

    教会のペトロ的な面とは、ペトロの後継者であるローマ教皇に代表されるような使徒的な側面、目に見える地上の組織という側面です。

    教会のマリア的な面については、教皇ヨハネ・パウロ二世が使徒的書簡「女性の尊厳と使命」の中でこう指摘しています。「聖性の段階において教会の『かたどり』となるものは、ナザレのマリアであることを思い起こします。マリアは聖性への道において皆に『先行』するものです。彼女において『教会は、すでに完成に到達し、しみもしわもないもの』でした。(27)」

    つまり聖母マリアこそはキリスト者が完成を目指して進むときに模範となる存在であり、教会のあるべき姿、「かたどり」なのだという指摘です。ですから教会にはマリア的な面があるといいます。

    教皇フランシスコは教皇ヨハネ・パウロ二世と同じように、教会のマリア的な面がペトロ的な面に先行することを強調しつつ、同時にマリア的な面こそが福音宣教をする教会にとっては不可欠であることを強調されています。教皇フランシスコが大切だと考える福音宣教における教会のマリア的な面とは、すなわち「マリアという生き方」という言葉に表された、聖母の生きる姿勢です。

    教皇様は、「マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになる」(288)と記して、それを聖母の讃歌(マグニフィカト)から読み取ることが出来ると指摘しています。先ほど朗読されたルカ福音書一章47から55節に記された聖母の讃歌は、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と始まります。

    聖母マリアが「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い上げる理由は何でしょうか。それはそのすぐ後に記されている言葉から明らかです。それは主が「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったから」に他なりません。

    教皇フランシスコはこの言葉に、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれである」ことを見て取ります。そして続けます。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりしません。(288)」

    聖母マリアの人生を見れば、それは決して弱さのうちに恐れているような生き方ではありません。それどころか、神から選ばれ救い主の母となるというすさまじいまでの人生の転換点にあって、恐れることなくその運命を受け入れ、主イエスとともに歩み、その受難の苦しみをともにしながら死と復活に立ち会い、そして聖霊降臨の時に弟子たちとともに祈ることで、教会の歴史の始まりにも重要な位置を占めるのです。それほどの選びを受けた聖母マリアは、あくまでもその力を誇ることなく、謙虚さと優しさのうちに生きて行かれます。

    教皇様の言葉は、いったいこの世において本当に力のあるものはだれなのかという価値基準への警告であります。今の世界では、いったいどういう人が強いものだと考えられているのか。その判断基準は本当の強さに基づいているのか。本当の強さとは、謙虚さと優しさという徳のうちにあるのではないか。

    教皇様は、この世の権勢を誇るのではなく、排除され忘れ去られている人たちとともに歩む謙虚さこそが、人間にとって大切であることを、自らの行動を持って示されてきました。12月2日から6日まで、教皇様はキプロスとギリシャを訪問されましたが、ギリシャでは難民や移住者の受け入れに消極的なヨーロッパ諸国政府を批判され、以前にも訪れられた難民の方々が漂着するレスボス島を再訪され、難民の方々とともにある教会の姿を示しました。

    最高の勇気の発露であるキリストの愛は、ゆるしと自己犠牲によって成り立っていますが、それこそは神の御子の生きる姿勢、すなわち神のいつくしみのあかしとしてとらえられます。そして教会はこの同じあかし、すなわち神のいつくしみを生きることを、最も大切な生きる姿勢として自らのものとしなければなりません。まさしく聖母マリアにおいて謙虚さと優しさといういわばいつくしみの要素が強さのあかしであるように、主においてもゆるしと自己犠牲といういつくしみの要素が、その強さのあかしとなるのです。

    聖母の導きに身をゆだね、聖母に倣い、謙虚さと優しさを持って、歩みをともにしてくださる主と、傍らを歩まれる聖母とともに、福音をあかしするために積極的に出向いていく教会でありたいと思います。

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