大司教

死者の月、追悼ミサ

2021年11月11日

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11月は死者の月です。毎年11月の第一日曜日には、カテドラル、府中墓地、五日市霊園で、それぞれ教区主催の合同追悼ミサが捧げられていますが、昨年と今年は、感染症の状況の中で多数が集まる行事が難しいため、中止となりました。

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そこで今年は、11月7日の主日が教区の追悼ミサの日に当たっていますので、この日は、あきる野教会へ出かけ、午前11時から主日ミサを一緒に捧げさせていただきました。あきる野教会は教区の五日市霊園の隣りにある教会です。ミサには大勢の方が集まってくださいました。ミサ後に、あきる野教会の方々はお花を持って、五日市霊園に墓参に出かけられました。わたしは、霊園の麓にある教区の合葬墓の前で、追悼のお祈りをさせていただきました。

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五日市霊園は山の斜面にある広大な霊園で、あきる野教会の方々も、関係している墓所を巡るだけで、2時間はかかるとのこと。この日は、各地から大勢の方が、墓参に訪れていました。

なお、あきる野教会は、青梅教会と兼任で主任を務めてくださっていた李神父様が、派遣契約期間が終了してこの10月に所属するソウル教区に戻られたこともあり、現時点では主任司祭が不在です。大変申し訳ないと思います。なんとか司祭の当番を決めて、主日ミサは確保したいと思いますが、正式には来春の定期人事異動で、担当する司祭を任命いたします。

以下、当日のミサ説教の録音から起こして整理した、説教原稿です。

2021年11月7日あきる野教会 主日追悼ミサ

毎年11月の第1日曜日には、教区合同追悼ミサが執り行われます。本来であれば、本日午後にカテドラルで、わたしが追悼ミサを捧げるところですが、現在の感染症が収まらない中で大勢が集まることが難しく、昨年も今年も、合同追悼ミサは中止ということになりました。

しかしながら、亡くなられた方々のために祈ることは、大切な教会の伝統ですし、地上の教会と天上の教会の交わりの中で私たち自身の霊的成長のためにも、死者のために祈ることは大切なことです。そこで、今年は、あきるの教会にお邪魔させて頂き、亡くなられた方々の永遠の安息のため、一緒にお祈りを捧げることとさせて頂きました。ミサ後にはお隣の五日市霊園でもお祈りを捧げようと思います。

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新型コロナ感染症は、この社会の多くを変えてしまいました。いろんなことができなくなってしまった。集まることができない、一緒に祈ることができない。しかしできなくなっただけでなく、新たにできるようになったこともありました。

たとえばオンライン会議。実際に移動することなくインターネットで、自分の家に居ながら会議ができるようになりました。移動の時間と費用が節約できます。そしてもう一つ。男性が料理をするようになったと耳にしました。毎日家に居るようになったので、男性が自分で料理をするようになった。私も毎日夕食を自分で調理するようになりました。今まで一度も料理などしたこともなかったんです。東京の司教館の隣には「ペトロの家」という引退された大先輩の司祭の家があり、そこの厨房には業者が入っているので、わたしは以前はそちらへ食事をしに行っていました。ところが、感染対策のこともあり、高齢の司祭が大多数ですから、去年の半ば頃から、ペトロの家に食事に行くのを控えるようになりました。それで、自分で作るようになりました。

そうすると、当たり前ですが買い物に行かなくちゃいけない。関口教会の前の坂道をダラダラ降りて行くと、江戸川橋の交差点のところにスーパーマーケットがあるんですね。先日の夕方、そこまで買い物に行きまして、そのちょっとした間に二つのことを目撃しました。その二つの出来事を目の当たりにし、今この感染症の影響が、社会に深い傷を残していると感じたことがありました。

一つは、坂道を降りて行くと首都高速が通っていて、その下で子どもが大きい声で泣き叫んでいるのです。小さな子が、ものすごい大きな声で泣いているんです。どうしたのかなと思って覗き込んだ瞬間に、お父さんが、まだ若い、たぶん20代か30代前半くらいのお父さんが、ものすごい勢いで怒り始めて、これは大変な剣幕だなと思いましたが、周囲でもいろいろな人が心配そうにのぞき込んでいました。

二つ目は、今度はタクシーがお客さんを下ろすために止まったんですが、そのタクシーの後ろの部分がちょっと横断歩道に掛かっていた。ちょうどその前で高齢の男性が、信号が変わるのを待っていて、信号が変わったとたんに彼はタクシーをバーンって叩いた。で、運転手さんが慌てて出てきたら、すごい形相で、『こんなところに車止めていいと思ってんのか!』と大声で怒鳴りつけたのです。そんな怒んなくていいのに、ちょっと避けたらいいのにと思うことなんですが、ものすごい勢いで怒鳴り付けていて。タクシーの運転手さんは、さすがに喧嘩するわけにいかず一所懸命謝っていました。

買い物をして戻ってきたら、さっきの子どもが泣いていたところに警察官が来ていました。さすがに近所に住んでいるどなたかが警察を呼んだみたいですね。それほどの怒り具合だったんです。

たった20分くらいの間に、心の余裕を失ってしまった現実を目の当たりにした思いがします。多少なりとも恐怖を感じることでもあるし、悪くすれば命に係わることでもある。先日の電車の中での事件のように、人の命を奪うような、とてつもなく殺伐とした社会が、今私たちの周りに広がっているような気がして仕方がないのです。

もしかしたらすでに、だいぶ以前からそのような殺伐とした社会であったのかもしれません。けれども、やはりこの2年の間、私たちはとても不安に過ごしていた結果なのだと思います。この先どうなるんだろうと言う不安です。新型コロナ感染症という病気がどんなものかよくわからない。実際に重篤化する人や亡くなる人がいる。いつまでこの状況が続くんだろう。ワクチンを打って、何ともない人もいれば副作用がある人もいたりとか、いろんな未知の出来事が私たちの周りで起こっている。

単なる不安ではなく、実際に生きて行くことができるのかという、命に関わる不安。不安の暗闇の中を彷徨っている状況です。どこをどうしたらいいのか、わからない中で、私たちは答えを探して彷徨っているわけですね。暗闇を手探りで歩いている状況です。暗闇の中を手探りで歩いていると、どうしても疑心暗鬼になる。何でもかんでも疑ってかかるような心持ちになってくる。

この疑心暗鬼が生み出す不安は、どんどんどんどん積み重なっていくと、心は非常にとげとげしくなる。寛容さを失って行く。つまり、自分を守ろうとして、自分の命を守ろうとして、寛容さの許容範囲がどんどんどんどん狭まっていくのですね。自分を守りたいと思うので、どうしても利己的な心になり、他人のことを受け容れる心の余裕がなくなってしまう。寛容さが失われていくのです。今まさしく、私たちの日本の社会だけでなく世界中で、社会の寛容さが失われてしまっている気がいたします。

寛容さを失った社会は、人の命を危機に陥れる可能性に満ちた社会となります。病気も人の命を危険に陥れますが、その病気が社会にもたらした状況が、別な意味で人間の命をとてつもない危機に直面させている。寛容さを失うと、そこから立ち直るのは大変です。たとえば、仮に年が明けて政府がこれで安心ですと、薬もできましたから大丈夫ですとアナウンスをしたところで、社会の状況はすぐに元に戻るかも知れませんが、人の心は、戻るのにものすごい時間がかかるんですね。人間の心ってそんなにフレキシブルでないので、いったんどこかでグッと押し曲げられたら、なかなか戻るのに時間がかかるものなのです。ですので、私たちは今とても心が危うい、社会全体で心が危うい状況の中に命を生きているということを、つくづく感じています。

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今日の福音は、貧しい寡婦が生活費の大半を、献金として入れたという話です。それをイエスが、この人は有り余っているからではなく、乏しい中から持っているものをすべて、必要なお金を全部神様に捧げたんだと、自分を犠牲にして神に捧げたことを褒め称えている話ですね。

そして第一朗読でも、もう食うにも困っている寡婦のところに預言者エリヤがやって来て、その水を飲ませてくれと、そしてパンを食べさせてくれと言う。でも彼女はそんなパンなどないんです。あとは死ぬのを待つだけなんだと言っている。それでも出せと迫られて、彼女は持っているものをすべて預言者エリヤに捧げたところ、神はそれを良しとして祝福を与えられた。自己犠牲に対して祝福を与えられたという話ですよね。

まさしく、イエス・キリスト自身が自分の命を犠牲にしてすべての人を救ったことを、神は良しとされた。自己犠牲。私たちの信仰の根本にあるものは自らを捧げる自己犠牲の心です。心をどんどん閉じていって自分のことだけ考え、心の寛容さを失っている状況では、自分を犠牲にしようとは思えない。心が広く寛容であるからこそ、自己犠牲ができるんですね。

自分のことを守るためではなくて、誰かのためにです。誰かのために奉仕したい、誰かのために尽くしたい、誰かのために助けたい……。誰かのためにという心を持つには、寛容で開かれた心でなければならない。今の社会の状況とは対極にあるのが、自己犠牲の精神だと思います。

我慢をするということではなくて、自分の心を開いて、他人の痛み、他人の苦しみ、他人の願いに、耳を傾け心を開いて行く。それが、自分を犠牲にして他者に奉仕するイエスご自身の生き方であるし、この福音と第一朗読に示されていることだと思います。

そしてまさしく今、この新型コロナ感染症が終焉に向かって行きつつある、社会が元に戻ったときのために、寛容さを失ってしまっている心にもう一度豊かさを、優しさを、慈しみを取り戻すことを意識したい。だからこそわたしたちキリスト者の生き方というものに、とても大切な意味があると思います。街頭で宣伝をする必要はないんですけれど、私たち一人一人が、そうした寛容さを持った、慈しみを持った心の生き方を、具体的に社会に示して行くということが、とても大切なことだと思います。

キリスト者の救いの希望は、その寛容さにあって、その寛容さは、自分のためにだけでなくて、究極的には永遠の命に繋がって行くということ。この世だけですべてが終わってしまうのでなく、永遠の命の中で、神のもとで、私たちは新しい命を生きて行く。常に生かされているんだという確信。その希望を掲げながら、イエス・キリストの福音を具体的に生きて行くことで、伝えていきたいと思います。