菊地大司教

    貧しい人のための世界祈願日・そして聖書週間

    2020年11月14日

    11月15日の年間第33主日は、教皇様によって、「貧しい人のための世界祈願日」と定められています。今年で第4回目となります。今晩公開する週刊大司教では触れていませんが、次週、王であるキリストの主日の週刊大司教において、教皇様のメッセージに触れることにしています。

    今年の祈願日にあたり、教皇様はメッセージを発表されています。タイトルは、「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」というシラ書7章32節の言葉です。メッセージ全文はこちらのリンクからお読みいただけます。その冒頭の部分を引用します。

    「古来の知恵はこのことばを、生活の中で従うべき聖なる規範として示しました。このことばは、今日、その重い内容すべてをもってこだまし、本質を見つめ、無関心という障壁を越えられるよう、わたしたちをも助けてくれます。貧困はつねにさまざまな顔をもっており、個々の状態に目を向けなければなりません。その顔一つひとつを通してわたしたちは、兄弟姉妹の中のもっとも小さい者の中にご自分がおられることを明らかにされたかた(マタイ25・40参照)、主イエスと出会うことができます。」

    教皇様は、「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」という聖書のことばを何度も繰り返しながら、現在の世界の現実を指摘しながら、悔い改めを呼びかけておられます。そこにはこういう一節もあります。

    「「貧しい人に手を差し伸べよ」。このことばは、ポケットに手を入れたまま、貧困に心を揺さぶられることのない人の姿をかえって際立たせます。彼ら自身も往々にして、貧困を生じさせることに加担しています。そうした人々は、無関心と冷笑主義を日々の糧としています。」

    そして教皇様は、このメッセージを、聖母への祈りで締めくくります。メッセージの終わりにこう記されています。

    「だれよりも貧しい人の母でおられる神の母が、貧しい人と日々出会いながら歩むこの旅に寄り添ってくださいますように。おとめマリアは、社会の片隅に追いやられた人の困難と苦しみをよくご存じです。ご自身も馬小屋で御子を産んだからです。そして、ヘロデ王による迫害から、夫のヨセフと幼子イエスとともに他国に逃れることになりました。聖家族は数年の間、難民として暮らしたのです。貧しい人の母であるマリアへの祈りにより、マリアの愛する子らと、キリストの名においてその子らに仕える人とが一つに結ばれますように。そして、差し伸べられる手が、分かち合いと、取り戻された兄弟愛による抱擁へと姿を変えますように。」

    貧しい人のための世界祈願日は、いつくしみの特別聖年(2015年12月8日~2016年11月20日)の閉年にあたり公布された使徒的書簡「あわれみある方と、あわれな女」において定められました。使徒的書簡はこちらのリンクからご覧いただけます。

    さて11月15日から一週間は、聖書週間と定められています。カトリック中央協議会のホームページには、次のように解説されています。

    「聖書週間は、1976年5月の定例司教総会で、全国的に聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための運動として「聖書週間」設定案が当時の宣教司牧委員会から提出され、同年11月の臨時司教総会において1977年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」とすることが決定されました。さらに、聖書委員会の発足と同時に委員による活発な啓蒙活動によって、日本のカトリック教会の中でも聖書への関心が高まってきました。その後、カトリック司教協議会による諸委員会の機構改革にともない、聖書委員会は1998年2月に解消されましたが、聖書週間は常任司教委員会によって引き継がれ、リーフレット「聖書に親しむ」とポスターの制作も継続されることとなり、今日に至っています。」

    今年の聖書週間のテーマは、特にラウダート・シ特別年であることから、「あなたはたたえられますように」とされています。中央協のリンクはこちらです。

    第二バチカン公会議の啓示憲章は、次のように記しています。

    「福音が教会の中に絶え間なく完全にかつ生き生きと保たれるように、使徒たちは後継者として司教たちを残し、彼らに「自分たちの教導職を伝えた」のである。それゆえ、この聖伝と旧新約両聖書とは、地上を旅する教会が、顔と顔を合わせてありのままの神を見るときまで、すべてを与えてくださる神を見るための鏡のようなものなのである。(7)」

    さらに次のように記して、聖書がカトリック教会における信仰にどれほど重要な意味を持っているかを指摘しています。

    「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである。教会は聖書を聖伝と共につねに自らの信仰の最高の基準としてきたのであり、またそうしている。なぜなら、神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである。(21)」

    その上で、「教会のすべての宣教は、キリスト教そのものと同じように、聖書によって養われ導かれなければならない」と指摘します。

    わたしたちの主イエスは、人となられた神のことばであります。それが「変わらないものとして伝え」られている聖書にあらためて親しむ機会、それがこの聖書週間です。カトリック教会独自の翻訳としてはフランシスコ会訳がありますし、また先日1972年から翻訳事業に携わってきた大阪教区の和田幹生神父様が、日本聖書協会から第31回聖書事業功労賞を受賞したことからも分かるように、長年にわたってカトリック教会は超教派の翻訳事業に関わってきました。現在はわたし自身が務めていますが、日本聖書協会の理事には司教が一名加わることを慣例としています。ご自身で、また研究会や祈りの集会などでは、フランシスコ会訳や聖書協会の翻訳(新共同訳や聖書協会共同訳など)を、自由に使ってくださって構いません。カトリック教会の典礼にどれを使うかは、翻訳用語の問題や、教会の祈りにも使われる詩編の翻訳など、乗り越えるべき課題がいくつもまりますが、徐々に前進するでしょう。現在は、ミサの典礼などでは、これまでの長年の経緯もあり、新共同訳を、一部許可を得て言葉を換えながら使用していることは、聖書と典礼などから明らかかと思います。

    以下、今年の聖書週間にあたり、日本聖書協会がお願いしている献金の呼びかけに書かせていただいた私の文章です。

    「神のことばは、信じる者すべてにとって救いのための神の力」です(啓示憲章17)。聖書に記された神からの語りかけが、わたしたちを生かす信仰の力の源となります。
    30年以上前にアフリカのガーナの教会で働いていた頃、私が担当していた地域の部族の言葉による聖書は存在していませんでした。ミサの度ごとに、カテキスタが公用語である英語の聖書を手に、その場で「翻訳」をしていました。残念ながらそのすべての朗読が、ふさわしい翻訳であったとは言えず、伝わるはずの神の思いが充分に伝わらなかったこともしばしばでした。
    聖書の翻訳は重要な使命です。そして数多ある言語への翻訳作業とその聖書の普及には、充分な資金が不可欠です。また異なる言語だけではなく、視覚に障害を持たれている方々にも、聖書に記された神のことばを信仰の力としていただきたい。その作業のためにも充分な資金が不可欠です。
    聖書週間にあたり、ご自身がまず神のことばから信仰の力をいただくと同時に、未だ聖書を手にすることのできない多くの方々に思いを馳せ、祈りと献金をお願いいたします。