菊地大司教

    年間第十八主日@東京カテドラル

    2020年08月02日

    毎年夏が始まるこの時期には、「あっという間に」月日が過ぎてしまったなどと実感させられることが多いのですが、今年はいつもと異なります。まずもって8月が始まったのに、まだ梅雨の中にいるような毎日が続いており、暦の感覚と肌感覚が調和していません。加えて、新型コロナウイルス感染症の事態はいっこうに終息せず、毎日のように両極端の様々な意見が飛び交う中で、ただただ時間だけが過ぎています。

    東京都で毎日報告される新規の感染者数は増加していますが、先週も触れたように、その増減に一喜一憂することなく、わたしたちは基本の感染症対策に徹して、互いのいのちを守ることを心したいと思います。密集・密接・密閉を避け、手指を消毒し、マスクを着用しながら、信仰生活を可能な範囲で続け、深めていきたいと思います。

    なお、現在のステージにおいて教会活動参加に大きな制約のある、特に高齢の信徒のみなさまへ、特別な司牧的配慮を、それぞれの小教区の事情と地域の事情に応じて考えてくださるように、小教区を担当する司祭方には依頼をしてあります。すべて一概に同じような対応をすることは難しいとは思いますが、それぞれの事情に応じて、霊的な側面での司牧的配慮を講じていくことが出来るように、それぞれの現場で取り組まれていることと思います。ただし、どうか高齢の方にあっては、これまでのインフルエンザなどと異なり、今回の新型コロナウイルスにあっては解明されていないことが今の段階では多々ありますので、「健康に問題はないから」と過信されずに、是非とも慎重に行動されますようにお願いいたします。

    現時点での東京や千葉における感染の報告は日々ありますが、幸いなことに教会活動を通じた感染の報告は今のところなく、教会の感染対策にも一定の効果があるものと思われますので、次の一週間、8月2日から9日まで、現在の制約を伴った活動状況を継続いたします。

    以下、本日の夕方6時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第18主日の公開配信ミサの説教原稿です。
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    年間第18主日
    東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
    2020年8月2日 前晩


    人間の幸せとは、いったい本当はどういうことなのでしょう。わたしたちはそれをよくわかっているようで、その実、人間を幸せにしてくれるのは何か、考えれば考えるほど様々な課題が浮かび上がってきて、明確に定義づけることができません。

    一番の問題は、幸せというのが、何かを持って計ることのできる絶対的な概念ではなくて、一人ひとりでその中身が全く異なる相対的な概念であることです。

    そうであったとしても、少なくともわたしたちは、決して皆が不幸になるようにではなく、皆が幸せになるようにと、歴史の中で努力を続けてきたはずであります。

    第二次世界大戦の後、荒廃した世界の現実から立ち上がり、再び愚かな戦いをすることなく、幸せな世界を築き上げようとした国際社会は、世界人権宣言を採択します。

    その冒頭に、「全ての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳及び権利について平等である」と力強い宣言が記され、さらに第25条には「全ての者は、自己及び家族の健康及び福祉のための相当な生活水準についての権利、並びに失業、疾病、障害、配偶者の死亡、老齢そのほか不可抗力による生活不能の場合に保障を受ける権利を有する」と記されています。

    1966年に定められた社会権規約には、「自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善について全ての者の権利を認める(11条)」と記されていました。

    しかしながら、そういった理想と様々な努力にもかかわらず、現実の世界では貧富の格差が拡大し、世界銀行が定める一日1.9米ドル未満と言う極度の貧困ライン以下で生きる人たちは、改善されたとはいえ、いまでも世界人口の一割ほどをしめています。

    教皇ヨハネ・パウロ二世は、1991年に発表された回勅「新しい課題」に、こう記しています。
    「より良く暮らしたいと願うことは間違いではありません。間違っているのは、『あること、生き方』よりも『持つこと、所有』を目指すことが、より良い暮らしに繋がると決めてかかる生活様式であり、より良く生きるためではなく、快楽を人生の目的とし快楽のうちに人生を送るために、より多く持ちたいと願う生活様式なのです(36)」

    教皇フランシスコも、東京ドームでのミサ説教で、このように述べていました。
    「子としての自由が抑え込まれ弱まるときがあることを知っています。それは、不安と競争心という悪循環に陥るときです。あるいは、息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐときです。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々にわたしたちを無関心、無感覚にし、表面的ではかないことがらに胸がときめくように仕向けるのです」

    その上で、教皇フランシスコは、「イエスにおいてわたしたちは、自分たちは神の子どもだと知って自由を味わう、新たないのちを見いだすのです」と指摘されます。

    あらためて言うまでもなく、神が与えようとされているのは、この世の幸福ではなく、神の言葉に聞き従うことによって、魂がその豊かさを楽しみ、いのちを得る心の糧であります。本当の幸せは、「イエスに出会う人々の心と生活全体を満たす」福音の喜びであると、教皇フランシスコは、「福音の喜び」の冒頭で指摘します

    わたしたちには、その福音の喜びこそが真の幸福の源であると主張し、それを多くの人に伝えていく義務があります。

    今日の福音は、五つのパンと二匹の魚の奇跡物語でありました。その奇跡が起こる前の、弟子たちとイエスとの会話に注目したいと思います。

    大勢の人がイエスの話を聞くために集まっている中で、当然、人間的な必要を満たしていくことを無視することはできません。そこで弟子たちは、それぞれが食事を求めるように人々を解散させようとします。それぞれの思いのままに人々を散らしてしまおうとする弟子たちに対して、イエスは、「あなた方が彼らに食べるものを与えなさい」と指示をします。

    集まっている大勢の人にとって必要なのは、真の幸せをもたらすイエスの福音であって、イエスから離れてこの世の充足を求めることではないと指摘する、イエスの弟子たちへの指示であります。もちろん実際に空腹を満たすことの必要も否定しないイエスは、パンと魚の奇跡を起こしてそれに応えますが、しかしこの場面で重要なのは、その弟子とイエスのやりとりです。

    世間の常識に従って行動しようとした弟子たちに、イエスは、真の幸福の源はどこにあるのかをもう一度見直すようにと求められました。

    その同じことを、現代に生きる弟子であるわたしたちは、主イエスからおなじように問いかけられています。本当の幸福は、この世の生み出す幸福にはあり得ないことを、そして、本当の幸福は、イエスの福音にあることを、多くの人に伝えるように求められています。福音に従ってより良く生きることこそが、本当の幸福の源であることを、わたしたち自身の生き方と、語る言葉であかししながら伝える務めがあります。

    社会の現実の中で、福音を伝えようとすることには、当然さまざまな困難があります。パウロはそれを、「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」による抵抗と記していました。形を変えて、これらの抵抗は現代社会にも存在していますし、そのためにわたしたちは福音を伝えることを躊躇してしまいます。しかしパウロは、そういった苦しみは、「キリストの愛からわたしたちを引き離すことはできない」と断言します。

    教皇フランシスコは、「福音の喜び」に、「もし、イエスを伝えたいという強い思いを抱いていないなら、イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと、もっと祈る必要があります(264)」と記しています。

    人間の真の幸福の源であるイエスの福音を、勇気を持って困難を乗り越え、多くの人に伝える思いを抱くことができるように、「再びあなたに引き寄せてください」と、さらに祈り続けましょう。

    わたしたちの「心と生活全体を満たし」てくれるのは、福音の喜びであって、それは「イエスに出会う人々」に与えられるからです。「罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放」するのは、「イエスの差し出す救い」にあるからです。

    だから、すべての人の幸せを願いながら、「イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと」、何度も何度も祈り続けましょう。