大司教

年間第十七主日@東京カテドラル

2020年07月26日

このところ、毎日のように発表される感染の数にどうしても大きな関心が寄せられていますが、特に東京都の場合はその日に検査が陽性となった方ではなくて、当日朝までに保健所から都に報告され、内容が確認された件数ということのようですので、必ずしも、今日は多いとか少ないとか、数字の多寡に一喜一憂する必要はないものと考えています。とはいえ、感染が終息に向かっているようには見えませんし、日々状況が変化しますが重症者数も増減を繰り返していますので、まだまだ慎重に行動する必要があります。

これまでのところ、小教区において感染の報告はありませんが、それが現在の各小教区の感染対策の結果なのか、それとも今般の感染症がそういった程度のことなのかは、残念ながら確証を持ってどちらかだと断定することは出来ません。ですから現時点では、教区としてはより慎重な判断を優先させる必要があると考えています。

したがって、これまで同様の小教区における感染対策を、次週も継続していきたいと思います。原則として、7月26日から8月2日までの一週間は、教会活動にあってはこれまで同様、「感染しない・感染させない」ための対応を継続します。(現在の対応については、東京教区のホームページをご参照ください。また教区の大枠に基づいて、各小教区での独自の対応も定められていますので、ご不明の点は小教区の主任司祭にご確認ください)

以下、年間第17主日ミサ、土曜日午後6時の関口教会でのミサ説教の原稿です。
※印刷用原稿はこちら
※ふりがなつきはこちら

年間第17主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂 
2020年7月26日前晩

「良き友は人生の宝だ」とか、「苦難は人生の宝だ」とか、「出会いは人生の宝だ」とか、わたしたちの人生には、さまざまな「宝」がつきものです。

人間関係だとか、社会での体験だとか、そういった多くの宝は、誰かとの出会いの中で、自分の人生を豊かにしてくれる得がたい存在であります。

もちろん、趣味で何かを集めているときなどに、そういったコレクションが「宝」となることもあるでしょうが、いずれにしろわたしたちが「宝」と言うときには、実際の貨幣的な富としてわたしたちを経済的に豊かにしてくれる「宝」のことではなくて、貨幣的な価値では計ることのできない豊かさを与えてくれるものをさして、「宝」と呼んでいます。

マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を記しています。さらには、「持ち物をすっかり売り払い」手に入れようとするほどの、「良い真珠」の話を記しています。

すなわち、何か経済的な付加価値を与えてくれるような「宝」ではなくて、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような「宝」であります。

この話は、ともすれば、非常に利己的な響きを持つ話でもあります。自分の人生の利益のために、隠し持っておこうとする宝の話のようにも聞こえます。

列王記には、ダビデ王を継いだソロモンが、「何事でも願うが良い」と神に言われたときに、自分のための様々な利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願うことで、神からよしとされ、「知恵に満ちた賢明な心を」与えられたと、記されています。

神から、それこそ人生の最高の宝を与えようと言われたときに、ソロモンは自分の利益のためではなく、自分に託された神の民のための宝を求めた。ここに福音に記された、すべてをなげうってでも手に入れたくなる宝の意味が示されています。

自分の利益のためではなく、他者の利益となるために、宝を手に入れる。すなわちわたしたちは、社会の共通善に資するために、宝を求め続ける。
わたしたちの宝とは、いったい何でしょうか。

昨年東京ドームでミサを捧げられた、教皇フランシスコの説教の言葉を思い起こします。
教皇はマタイ福音の6章33節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言う言葉を引用した後に、次のように言われました。

「主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。この世での己の利益や利潤のみを追い求める世俗の姿勢と、個人の幸せを主張する利己主義は、実に巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします」

教皇フランシスコは、無関心のグローバル化という言葉を使って、現代社会に生きるわたしたちが、利己主義を強めながら、むなしいシャボン玉の中に閉じこもって、はかない夢を見ながら、他者への関心を示さなくなっていると、教皇就任直後から指摘を続けておられました。

ドームミサの説教で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる「わたし」に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる「わたしたち」、これしかありません」と指摘されました。

わたしたちは、社会という共同体の中で、孤立することなく、互いの交わりの中で、共同体全体の益、すなわち共通善に資するよう、持っている宝を分かち合わなくてはならない。

教皇ヨハネ・パウロ二世の「アジアの教会」に、次のように記されています。

「イエスに対する教会の信仰は、いただいたたまものであり、分かち合うべきたまものです。その信仰こそ、教会がアジアに差し出すことのできる最大の贈り物なのです。イエス・キリストの真理を他の人々と分かち合うことは、信仰のたまものを与えられたすべての人にとって重要な義務です(10)」

信仰は、わたしたちにとって宝であることは間違いがありません。そしてその宝は、自分の心に秘めて隠しておくためではなく、また自分だけの救いの鍵でもなく、共通善に資するように、多くの人と分かち合われなければなりません。わたしたちは、受けた信仰を分かち合うために、キリストに呼ばれています。

教皇フランシスコは、昨年この場所で青年たちと出会ったとき、こう述べられました。

「あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在してほしいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんの資質、好み、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためのものなのです」

わたしたちの宝である信仰は、いのちは神からの贈り物であると教えます。教会は、神が愛を込めて創造されたすべてのいのちは、例外なく、その始めから終わりまで大切にされ、守られ、その人間の尊厳が保たれなくてはならないと主張します。すなわち、いのちは最高の宝物です。

その宝物であるいのちは、自分だけのものではなく、他者のために与え尽くすいのちであるようにと、教皇は強調されました。

相模原の障害のある方の施設で、19名の尊厳あるいのちが暴力的に奪われてから26日で4年となります。最高の宝物であるいのちを、互いに与え尽くし支え合うためではなく、価値がないとして暴力的に奪うことは許されることではありません。事件の衝撃が残っているにもかかわらず、いまでも、いのちの価値の差異を強調して選別することをよしとする声が聞こえるのは、大変残念です。最高の宝物であるいのちは、互いの支え合いの中で、尊厳のうちに護られなくてはなりません。

「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と約束された主ご自身が、わたしたちのためにそのいのちを分かち合い共に生き、支えてくださるように、その主に従うわたしたちも、兄弟姉妹との交わりの中で、互いに支え合ういのちを生きていかなくてはなりません。

わたしたちの宝は、すべからく自分だけのものではなく、他者と分かち合うためにある。宝物である信仰を分かちう。たまものであるいのちを共に生きる。互いに助け合い、思いやり、きずなを深め、豊かないのちを生きることができるように、努めてまいりましょう。