菊地大司教

    年間第十六主日@東京カテドラル

    この数日間、東京では感染者数が拡大しています。このままミサを含めた小教区での活動を継続するべきなのか、それとも再び中止するべきなのか、判断に迷うところです。

    これから先、少なくとも一年以上にわたって、感染者数が増減したりする状況は続くことでしょうし、有効な予防策や治療法が確立されるまでには、その程度か、それ以上の時間が必要なことと想定されます。従って、選択肢は二つで、安心安全が確立されるまですべてを中止するのか、または、そういった状況の変化に合わせて教会活動も強弱を付けながら行うことができる道を模索し続けるのか。

    6月21日に教会の活動の再開を決めたときの選択は後者です。再開からそろそろ一ヶ月になりますから、それぞれの小教区では出来ることと出来ないことが明らかになりつつあると思います。またミサだけでなく、司牧的配慮の様々な道が模索されていることと思います。しばらくは、気を緩めることなく、常により慎重な道を選択しながら、感染しないことと感染させないことを念頭に、判断していきたいと思います。少なくとも、今週中(7月19日から25日)は、教会の活動を十分な感染対策をとりながら現状のように継続します。

    以下、年間第16主日のミサ説教の原稿です。
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    年間第16主日A
    東京カテドラル聖マリア大聖堂 
    2020年7月19日

    「すべてに心を配る神はあなた以外におられない」と、知恵の書は記していました。

    わたしたちはこの世界が、創造主である神によって支配されていることを信じています。神は「正義の源」であるその力を通じて「万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方」であると、わたしたちは信じています。

    しかしながら、同時にわたしたちは、この世界が様々な矛盾に包まれていることも知っています。神が、その愛といつくしみをもって創造された世界であるにもかかわらず、そこに大きな矛盾が生じるのはなぜなのか。

    それは例えば、環境破壊もその矛盾の一つであります。いったいなぜ、そのような矛盾が生じるのでしょうか。

    教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には、こう記されています。
    「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました。このことによって、わたしたちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任にゆがみが生じたのです(66)」

    すなわち、人間の欲望や思い上がりが、あたかも人間が神の座を奪い取り、神の存在なしですべてをコントロールできるかのように勘違いをさせ、勝手な行動を続けてきたがために、この世界に矛盾を生じさせてしまったのだと、教皇は指摘されます。

    人間の生を成り立たせているのは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」であるにもかかわらず、その三つのかかわりは、外面的にも内面的にも引き裂かれてしまった。その三つのかかわりが引き裂かれた状態こそ、罪であると、教皇は述べています。

    大きな災害に襲われるとき、大自然の脅威の前にたたずみ、わたしたちは人間の力や知恵がいかに小さな存在であるかを思い知らされてきました。同様に、今年の初めから続いている新型コロナウイルスによる感染症によってわたしたちは、目に見えない小さなウイルスの前で、人間の力がどれほど弱いものであるのか、人間のいのちがいかにもろい存在であるのかを、あらためて思い知らされました。

    思い知らされるとき、わたしたちは一時的に、謙遜に生きる決意を心に刻みます。思い上がりを正さなければと、心に誓います。残念なことに、その決意は長続きしません。長続きするのであれば、わたしたちは真摯に神の前で謙遜に生き、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を、それぞれ大切にする世界を構築してきたことでしょう。しかし現実は異なります。すぐに忘れてしまうわたしたちは、繰り返し人間の欲望に負け続け、大きな矛盾はわたしたちの共通の家の破壊につながりました。

    マタイ福音には厳しい言葉が記されていました。

    創造主である神は、良い麦も後で蒔かれた毒麦も、共に育つことを容認するけれども、最終的には刈り入れの時に峻別すると記されていました。一般的に、このたとえでの刈り入れの時は、世の終わりの最後の審判です。

    いまの世界は、まさしく神が創造された良い麦と、人間の欲望が生み出した悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。刈り入れの時まで待っておられる主は、決して悪の存在を容認しているのではなく、峻別できるそのときを待っておられるのだと福音は記します。

    パウロはローマの教会への手紙に、「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」と記します。その上で、聖霊がわたしたちの祈りを執り成してくださるとも記します。

    わたしたちは、「わたしたちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任」を忠実に果たすように求められています。すなわち、この世にはびこる毒麦をしっかりと識別して、それを良い麦へと変えていくこと。そのために、良い麦と毒麦をしっかりと峻別できる識別の目を与えてくださるように、聖霊の取りなしと導きを祈ること。

    わたしたちはあらためて天地の創造主である神の前で謙遜になり、いのちを与えられているものとして、人間の欲望ではなく、神の導きに従って、この共通の家を「耕し、守る」務めを果たしていかなくてはなりません。刈り入れの時までに、力の限りをつくして、悪い麦を減らし、良い麦へと変えていく努力を続けなくてはなりません。

    教皇フランシスコは、昨年11月に日本を訪れた際、首相官邸で政府や外交団の関係者に話をされました。その中で、次のように述べています。

    「地球は自然災害だけでなく、人間の手によって貪欲に搾取されることによっても破壊されています。被造物を守るという責務を国際社会が果たすのは困難だとみなすとき、ますます声を上げ、勇気ある決断を迫るのは若者たちです。若者たちは、地球を搾取のための所有物としてではなく、次の世代に手渡すべき貴重な遺産として見るよう、わたしたちに迫るのです。わたしたちは彼らに対し、むなしいことばでではなく、誠実にこたえなければなりません。まやかしではなく、事実によって、こたえるのです」

    その上で教皇は、世界が共通の家を守るために連帯して取り組むようにと求め、次のように述べられました。

    「人間の尊厳が、社会的、経済的、政治的活動、それらすべての中心になければなりません。世代間の連帯を促進する必要があり、社会生活においてどんな立場にあっても、忘れられ、排除されている人々に思いを寄せなければなりません。・・・孤独に苦しむ高齢者や、身寄りのない人のことも考えます。結局のところ、各国、各民族の文明というものは、その経済力によってではなく、困窮する人にどれだけ心を砕いているか、そして、いのちを生み、守る力があるかによって測られるものなのです」

    知恵の書に、「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」と記されていました。

    人間のわがままな心の思いを主張し続けるのではなくて、愛を込めてこの世界を、私たちのいのちを創造された神のいつくしみと愛に満ちた心に、耳を傾けるときです。すべてのいのちを守るために、排除ではなく互いに支え合いながら、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を大切にするときです。人間の尊厳を掲げて、連帯のうちに互いのいのちへの思いを馳せるときです。

    東京大司教タルチシオ菊地功