大司教

年間第十三主日@東京カテドラル

2020年06月27日

東京では連日五十人ほどの感染者の報告があります。まだまだ感染症の終息からはほど遠いと感じております。ミサの再開と言っておりますが、実際には、まだまだ教会の活動を全面的に再開するにはほど遠い状況であり、慎重に対応しなければなりません。教会はまだ普通の状態に戻っているわけではありません。

先週よりミサを再開しましたが、これはミサの再開と言うよりも、再開に向けた段階的な試みであるとご理解ください。2月27日以降、ミサはまだ完全には再開されておらず、いまは完全な再開を目指して、様々な条件を定めて、教会のメンバーの安全を優先しながら、限定的にミサを行っている段階です。ですから、様々な制約があり、みなさまにはご迷惑をおかけしております。

「ミサが再開されたのに、自分は参加できない」という声があることも承知しております。申し訳ありません。それぞれの小教区で状況が異なりますから、全体の大枠方針に沿って、それぞれの対応をお願いしています、現在の状況や条件が、未来永劫続く制度改革なのではありませんから、状況に応じて制約の条件は変更されますので、いましばらくは、お互いのためにご協力いただきますようにお願いいたします。宣言自体は解除されていますが、現実にはいまだ緊急事態は継続していると考え、緊急避難的な制約にご協力いただけますようにお願いいたします。
以下、説教原稿です。
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年間第十三主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年6月28日の前晩

教会活動の段階的な再開を始めてから一週間が過ぎました。ご存じのように、未だ感染者は毎日のように報告されており、以前のような完全な状態で安心してミサなどを再開できる状況ではありません。まず第一に、まだ安全な状況ではないのだということを念頭に置いていただければと思います。

その状況下でも、なんとかひとりでも多くの方に秘跡にあずかっていただきたいと考えて、様々な制約の中で、ミサなどを再開いたしました。とりわけ、感染した場合に重篤化し、いのちのリスクがある高齢のみなさまには、まだ今しばらく自宅に留まってくださるようにお願いしており、大変申し訳なく思っています。歴史に残る事態の荒波の中を、先へと進んでいるわたしたちは、互いにいのちを守るために、耐え忍びながら、支えあっていきたいと思います。

本日の、マタイ福音は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」という、主イエスの言葉を記しています。

「十字架を担って生きていく」と耳にすると、どのような状況を想像されるでしょう。苦しみを背負って耐え忍びながら、ひっそりと生きていくようなイメージでしょうか。感染症が終息しない中で、様々な困難に直面し、教会でも様々な制約を課されてしまった。十字架を背負って耐えて生きていこうと呼びかけている言葉でありましょうか。
そうではないように、わたしは思います。

そもそも、十字架とはいったいなんでしょう。重荷のことでしょうか。苦しみのことでしょうか。十字架が重荷や苦しみだけであるならば、それはどう見てもマイナスのイメージでしかありません。しかしここでイエスが語る十字架は、主にふさわしいものとされるための十字架であり、すなわち神に良いものとして認められるための、前向きな存在であります。十字架とはいったいなんでしょう。

コリントの信徒への第一の手紙の1章17節に、パウロの言葉が記されています。
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」

コリントの教会にあって、誰から洗礼を受けたのかということで派閥争いが起きたとき、パウロは、自らに与えられた使命は、「洗礼を授けるためではなく、福音を告げしらせる」ことなのだと宣言します。

もちろん、救いのために洗礼が必要であることは否定できませんが、洗礼よりも前に、まず大切なことがある。それはイエス・キリストの福音を告げることなのだと、パウロは宣言します。

加えてパウロは、「しかも」と続けます。「しかも、キリストの十字架がむなしいものとなってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げしらせるためだからです」

福音を、言葉の知恵に頼って告げていたのでは、キリストの十字架がむなしいものとなるというのです。ここではじめて、パウロが語る十字架の意味が明らかになります。すなわち、言葉の知恵によらずに福音を告げしらせているのが、キリストの十字架そのものであります。

言葉の知恵によらないとは、具体的に目に見える行動をもってのあかしが、十字架だということであります。十字架は、自らが創造された人間の救いのために、神ご自身がその愛といつくしみの充満として、積極的に行動した愛のあかしであります。神ご自身の行いによる愛のあかしそのものが、十字架です。十字架は、重荷や苦しみの象徴ではなく、積極的な愛の行動の象徴です。神の満ちあふれる愛といつくしみが、目に見える形となった時、イエスは十字架に自らかかり、そのいのちをいけにえとして御父にささげられました。これほど前向きで、積極的な、愛のあかしはありません。

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教会は、神がその似姿として創造された人間のいのちは、その始まりから終わりまで、例外なく尊重され護られなくてはならないと、繰り返し主張してきました。

いま、いのちを守るために世界が連帯しようとするとき、政治体制の違いや経済的利益の追求などの壁を乗り越えて、優先するべき価値を見直すときに来ていると感じます。

教皇フランシスコは、人間のいのちの尊厳を守るために、そのいのちが生きている地球全体を守ることの大切さを強調されています。

教皇フランシスコは、5月24日のアレルヤの祈りの際に、このように宣言されました。
「5月24日から来年(すなわち2021年)の5月24日までのこの一年間は、この回勅(「ラウダート・シ」)について考える特別な年となります。わたしたちがともに暮らす家である地球と、もっとも弱い立場にある兄弟姉妹を大切にするために力を合わせるよう、わたしはすべての善意の人に呼びかけます」

教皇はこの回勅「ラウダート・シ」の中で、現代社会についてこう指摘しています。
「現在の世界情勢は、『不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床』となります。人は、自己中心的にまた自己完結的になるとき、貪欲さを募らせます。」(204)

教皇は、世界に広がりつつある個人主義や利己主義を克服するために、新しいライフスタイルを生み出し、社会を変えていかなくてはならないと呼びかけています。世界中で自粛生活が続いた今、わたしたちはライフスタイルを見直すチャンスを与えられているようにも思います。

「神の作品の保護者たれ、との召命を生きることは、徳のある生活には欠かせないことであり、キリスト者としての経験にとっての任意の、あるいは副次的な要素ではありません」(217)と教皇は呼びかけます。

愛のあかしである十字架を、わたしたちは自らの生き方で、言葉で、行いであかししていきたいと思います。あかしして生きることこそ、十字架を担って生きていくことです。そうすることで、神のふさわしいものとされることができます。神にふさわしいものは、当然、神が愛を込めて創造されたこの世界を大切にするものでもあります。

いま、わたしたちにとって必要な生きる道は、どこに向かって開かれているのかを、信仰の目をもって見極めてまいりましょう。