大司教

年間第十二主日@東京カテドラル

2020年06月21日

長い自粛期間を経て、公開ミサが再開されます。年間第12主日にあたる6月21日からの再開です。前晩のミサを捧げたところも多くあったと思います。関口教会では、日曜日の午前10時は主任司祭がささげますので、わたしの配信ミサは前晩土曜日の午後6時からといたします。当分は継続いたします。

早速、先ほど、最初の公開ミサを捧げました。聖歌はいつもの通りイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。カテドラルの大聖堂は、他の教会と比べても空間が広いため、互いの距離を十分にとって、シスター方に歌っていただいています。

しばらくは状況を見極めますので、ミサの公開に制約があり、申し訳ありません。この状況下では、いのちをリスクにさらさないことが最も重要かと思います。教会にとっても、互いに、感染しない、感染させないためにも、そして神のたまものであるいのちを守ることを最優先にするためにも、慎重な行動をとってくださるようにお願いいたします。

以下、本日のミサの説教の原稿です。
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年間第12主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 
2020年6月21日

四旬節から復活節に至る長い自粛期間を経て、やっとミサを公開で行うことができる状況になりました。ただ、感染には波があるとも指摘され、完全に終息したわけではありませんから、しばらくの間、ミサを捧げることにも制約が伴います。その一つが、時間の短縮です。多くの聖堂は、どうしても密接・密集・密閉の状態を生み出しやすいものですから、なるべく集まっている時間を短くしようということで、例えば説教も、通常よりも短くと言うことにしております。

さて、いのちを守るためとはいえ、普段の活動が制限され、自粛ばかりを求められていると、どうしても思考が内向きになってしまいます。内向きになった思いは、自分の心の世界を中心に展開しますから、ともすればとても利己的になり、さらには、普段であれば心の奥底に秘めているような思いや、社会常識が盾となって表に出さない感情までも、あらわにしてしまいます。

自分とは異なる存在との差異を強調して、自らの立場を有利にし、自尊心を保とうとする行為は、差別を生み出す可能性があります。残念ながら人間の心には、自分と他者との相違をことさらに意識して、差別をする誘惑が存在しています。普段は理性や常識がそれをカバーしているのでしょうが、心が内向きになるとき、そういった誘惑が顔を覗かせてしまいます。

米国では、警察官の暴行が黒人男性の死を招き、人種差別への怒りが爆発してしまいました。日本でも、感染症が拡大してからインターネット上では、いつも以上に攻撃的な会話が展開されたり、具体的な差別的言動も耳にいたします。

今更ですが、第二バチカン公会議の現代世界憲章から、次の言葉を引用します。
「すべての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として造られ、同じ本性と同じ根源をもち、さらにキリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。したがって、すべての人が基本的に平等であることは、よりいっそう認められなければならない(29)」

わたしたちキリスト者にとっての人間の尊厳の根源は、創世記の記述にありますが、それを明確に記している公会議の言葉です。

さらに現代世界憲章は、差別についてこう語ります。
「社会的差別であれ、文化的差別であれ、あるいは性別・人種・皮膚の色・地位・言語・宗教に基づく差別であれ、基本的人権に関するすべての差別は神の意図に反するものであり、克服され、排除されなければならない。・・・人々の間に差異があるのは当然のこととはいえ、人格の尊厳は平等であり、このことから、より人間らしい公正な生活条件に届くことが要求される」(29)

北半球での感染にようやく出口の希望が見え始めた今、今度は南半球で、特に南米やアフリカでの感染拡大が心配されています。とりわけ、もともと医療資源に乏しく経済的にも厳しい状況のアフリカ諸国では、現地の司教たちが、感染症後の世界のあり方について、国際社会に向かってのアピールを出しています。日本を含めた先進諸国でさえも、経済に大きな打撃を被ることは確かでありますから、アフリカ諸国の状況はさらに厳しくなることが想定され、感染症以上に、経済危機によって、多くのいのちが危機に直面することが予測されています。

いのちの危機という不安の中に長期間を過ごし、活動の自由が制限される中で、殺伐とした雰囲気に包まれている世界は、いま、連帯とはほど遠い状況に立ち位置を定めようとしています。

ですから教会は、この世界に対して、ひるむことなく福音を告げしらせる義務があります。経済を優先して、あらためて以前のような世界に戻ろうとする流れに抗って、一人ひとりのいのちを大切にし、誰ひとりとして排除されない世界を、連帯のなかで実現しようと、明るみで、そして屋根の上で、ひるむことなく、大きな声で告げなくてはなりません。

教皇フランシスコの呼びかけを思い起こします。
「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」(福音の喜び20)

あらためて教会に集うことを始めようとしているわたしたちは、快適な場所を見つけて留まることなく、常に勇気を持って出かけなくてはなりません。それは、流れに逆らうことでもあるので、容易な挑戦ではありません。

現代における宣教について教えるパウロ六世の使徒的勧告「福音宣教」には、次のような興味深い指摘があります。
「人間は、たとえ私たちが福音をのべなくとも、神の憐れみによって、何らかの方法で救われうるのでしょう。しかし、もし私たちが、怠りや恐れ、または恥、あるいは間違った説などによって、福音をのべることを怠るならば、はたして私たちは救われうるのでしょうか。

なぜなら、もし宣教しないならば、福音の種が宣教者の声をとおして実を結ぶことを望まれる神の呼びかけに背くことになるからです。種が木となり実を付けるかどうかはわたしたち次第なのです』(使徒的勧告「福音宣教」80)

愛するすべてのいのちが救われるようにと、福音の種が、わたしたちの「声をとおして実を結ぶこと」を神は望まれる。常に困難に向かって立ち向かうようにと、わたしたちは呼ばれています。

世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる主に力づけられ、あらためて勇気をいただきながら、福音の種を蒔き続ける宣教者として、神が愛されるいのちの尊厳を、言葉と行いで告げしらせてまいりましょう。