大司教

ミサに関する文書への補足

2020年02月27日

本日2月27日から3月14日まで、新型コロナウイルスの感染拡大を防止する取り組みに協力するため、東京教区における『公開ミサ』中止を発表したところです。

数点、補足します。

1『公開ミサ』について

典礼に『公開ミサ』とか『非公開ミサ』という定義があるわけではありません。もともとの「感染対策注意喚起」の文書作成で参考にした、香港教区の文書にある「Public Mass」を、そのように翻訳しました。すなわち、現時点での主眼は「濃厚接触の可能性をできる限り低減するために何ができるか」ですので、「不特定多数の人が自由に参加できる」という意味で『公開』を使用しています。

2『ミサの中止』について

ミサは中止にはなっていません。中止になっているのは上記『公開ミサ』であって、教区内の小教区や修道院にあっては、「公開されない」形で、ミサが通常通り毎日捧げ続けられています。東京教区共同体内から、ミサが消えてしまったわけではありません。司祭はたとえ一人でミサを捧げたとしても、すべては「公」のミサとして捧げます。

『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』(ヨハネパウロ二世回勅「教会にいのちを与える聖体」)

3『霊的聖体拝領』について

あらためて言うまでもなく、聖体はわたしたちにとって最も重要な秘跡です。教会憲章には、次のように記されています。

「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す」

またヨハネパウロ二世は、「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえそれは教会が歴史を旅するうえで携えることのできる、最も貴重な宝だと言うことができます」と述べて(回勅『教会にいのちを与える聖体』)、個人の信仰にとってもまた教会共同体全体にとっても、聖体がどれほど重要な存在であるかを繰り返し指摘されます。

ミサは、キリストの贖いのわざとしての「犠牲とそれに続く復活を、秘跡の形で再現する」ものとして、キリストがいまここに現存し、また現存し続けると言う意味でも、教会にとって最も重要な位置を占めています。

さらにヨハネパウロ二世は「聖体のいけにえの救いをもたらす力が完全に発揮されるのは、主の体と血を聖体拝領によって受けるときです。聖体のいけにえは本来、聖体拝領を通じて信者とキリストが内的に一致することを目指しています」と述べて、聖体拝領の重要性を指摘されています。(回勅『教会にいのちを与える聖体』)

すなわち、聖体の秘跡が信仰生活にとってそれほど重要であるならば、今般の状況のように、公開のミサを一時的に中止することは、上記のように、「公』のミサは捧げ続けられるとはいえ、信徒の霊的生活の側面からは、あってはならないことです。

今回の決断は、教会が存在する地域共同体の共通善に資するために下したものですが、それが一時的に聖体祭儀が捧げられないような状態をもたらすことと、結果として生み出される善とを比較しながら到達した、何日もの祈りと熟慮と諮問の結果であることをご理解頂けると幸いです。

同時にそうであっても、司教にはどのような場合でも、信徒が聖体の秘跡に与るためにどうするのかを配慮する義務があります。

ここで注目したいのは、同じ回勅でヨハネパウロ二世がこう述べているところです。

『キリストの現存は、キリストのいけにえによる感謝の祭儀から生じ、拝領されることを目指しますが、それには秘跡による場合と、霊的な仕方による場合の両方があります」(ヨハネパウロ二世回勅『教会にいのちを与える聖体」)

わたしたちにとって欠くことのできない『聖体拝領』には、『秘跡による場合』と『霊的な仕方による場合』の二種類があるという指摘です、これが教会が伝統的に教える『霊的聖体拝領』のことであり、それはミサに与ることが様々な事情で不可能な場合のたすけであるだけではなく、聖体礼拝などの信心の持つ意味にも深くつながるものです。

それは例えば、聖体賛美式の儀式書の緒言には、「聖体の顕示と賛美式は、聖体に現存されるキリストをたたえ、聖体拝領によって最高度に実現したキリストとの一致を味わい深めるものであるから、霊と真理のうちに神に捧げるべき礼拝にとって大きな助けとなる」と記され、聖体拝領と聖体礼拝の連続した関係が示されています。

実際にミサに与って聖体拝領すること(秘跡による場合)は最も重要ですが、それ以外の場合にも、例えば聖体礼拝のうちにあって、またはミサに参加することができない場合にあって祈りのうちに、現存されるキリストとの一致を求めながら霊的に聖体を拝領することも忘れてはいけない教会の伝統です。

今回の状況にあっては、日々悪化する事態の深刻さに鑑み、また教会が存在する地域社会の共通善へ資するために、主日の公開のミサを行いませんので、秘跡による聖体拝領を受けていただくことができません。(病気など緊急の場合は、司祭にお申し出ください。例えば病院が立ち入り禁止などにならない限り、できる限りの努力をして対応します)そこで、教会には『霊的聖体拝領』の伝統があることを、是非とも思い出してください。

決まった形式はありませんが、例えばロザリオの祈りを捧げた後に、聖体のうちに現存されるキリストに思いを馳せながら、一致を求めて、心の内で拝領をすることでも良いですし、または主日にあっては、『聖書と典礼』を利用して、三つの聖書朗読を読み、共同祈願を唱え、主の祈りを唱えた後に、心の内で拝領をすることもできます。

または旧来の伝統に従って、ロザリオなどの祈りの後に、心の内に拝領し、次のような祈りを唱えることもできるでしょう。

『聖なる父よ、あなたが私の心に住まわせられた聖なるみ名のゆえに、また、御子イエスによって示された知識と信仰と不滅のゆえに、あなたに感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。

全能の神よ、あなたはみ名のためにすべてをつくり、また人々があなたに感謝するため、御子によって霊的な食べ物と永遠のいのちを与えられました。力あるあなたに何にもまして感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。アーメン」(カルメル会『祈りの友』より)

もちろん以前よく使われていた公教会祈祷文に掲載された祈りでも構いません。

ミサの映像配信がある場合は、通常通りミサの進行に従い、拝領の場面では、心の内に主を迎えながら、霊的に拝領します。

なおこういった事情の中で、ミサに与ることができない場合でも、祈りのうちに主と一致を求めることで(霊的聖体拝領)、教会全体で捧げられる感謝の祭儀のうちに教会全体の交わりに与ることになります。状況が少し異なりますが、『司祭不在の時の主日の集会祭儀指針」の34には、次のように記されています。

「迫害や司祭不足の理由から、短期間あるいは長期間、聖なる感謝の祭儀に参加できないでいる個々の信者あるいは共同体に救い主の恵みが欠けることは決してない。事実、彼らは秘跡に与りたいとの希望で内的に生かされており、さらに祈りにおいて全教会と一つに結ばれて神に哀願し、また自分たちの心を神にあげているからである。

彼らは聖霊の力強い働きによって、キリストの生ける体である教会ならびに主ご自身との交わりにあずかっており、秘跡の実りにもあずかっているのである」

四旬節の始まりに、このような事態になったのは残念ですが、これを是非とも振り返りの機会として、特に御聖体の持っている意味を改めて見つめ直し学ぶときにしていただければと思います。主との一致を求める心と、共同体とともに一致する心を持って祈りを捧げるとき、わたしたちは決して主と、そして共同体との交わりから、見捨てられることはありません。

(この際、ぜひご参考までに、聖ヨハネパウロ二世教皇の回勅「教会にいのちを与える聖体」をお読みください。90ページに満たない短い回勅で、学ぶところが多くあります。)