大司教

2019年 平和旬間

2019年08月21日

毎年8月6日から15日までの平和旬間。東京教区でも各地で関連の行事が行われました。8月10日(土)は平和旬間委員会企画の平和巡礼ウォーク、講演会(上智大学の中野晃一先生)、平和を願うミサが東京カテドラル聖マリア大聖堂などで行われました。

以下は菊地大司教が10日のミサ(聖マリア大聖堂)で説教した原稿です。

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わたしたちは今、戦いのまっただ中にあります。

確かにわたしたちの国は、1945年の敗戦以来、平和憲法を掲げる国家として、武器を取っての戦争とは極力無縁であろうとしてきました。その意味では、曲がりなりにも1945年から今にいたるまで、わたしたちが平和を享受してきたことには感謝しなければ成りません。

しかしながらこの数年、わたしたちの国は武器を手にすることなく進行する戦いのまっただ中にあります。それは、人間の命に対する脅威であり、それを守る戦いであります。

相模原市の津久井やまゆり園で殺傷事件が発生してから、先日の7月26日で3年目となりました。障がいと共に生きている方々19名が殺害され、20名を超える方々が負傷された凄まじい事件でありました。

その衝撃のすさまじさは、犯行に及んだ元職員の青年の行動以上に、その言葉によってもたらされています。自らの行為を正当化するだけにとどまらず、『重度の障がい者は生きていても仕方がない。安楽死させるべきだ』などと真剣に主張していたと報じられました。加えて、この犯人の命に対する考え方に対して、賛同する意見も、インターネットの中に少なからず見られました。

すなわち、わたしたちの社会には、役に立たない命は生かしておく必要はないと判断する価値観が存在していることを、この事件は証明して見せました。その価値観に飲み込まれるようにして、いのちに対する暴力的行動に走る人が出現し続けています。多くの人の命が一瞬にして奪われる理不尽な事件は、カリタス小学校や、京都アニメーションの事件としても発生し続けています。

いったいわたしたちの社会は、人間のいのちをどのような価値観に基づいてみているのか。大きな疑問を抱かせるような事件であり、人間のいのちが危機に直面していることを直接的に感じさせる事件の頻発でもあります。

さらには、この数年、少子化が叫ばれているにもかかわらず、せっかく与えられた命を生きている幼子が、愛情の源であるべき親や保護者の手で虐待され、命を暴力的に奪われてしまう事件も相次いでいます。報道によれば、年間10万件を超える虐待の報告が全国の児童相談所に寄せられていると言います。

もっと言えば、1998年をはじめとして2011年まで、わたしたちの社会では毎年3万人を超える方々が、何らかの理由で自ら命を絶つところまで追い詰められてきました。この数年は少しは改善したとはいえ、やはり2万人を遙かに超える人たちが、様々な要因から自死へと追い詰められています。

また社会全体の高齢化が進む中で、高齢者の方々が、孤独のうちに人生を終えるという事例もしばしば耳にいたします。誰にも助けてもらえない。誰からも関心を持ってもらえない。孤立のうちに、いのちの危機へと追い詰められていく人たちも少なくありません。

孤独のうちに希望を失っているのは高齢者ばかりではなく、例えば非正規雇用などの厳しさの中で、不安定な生活を送る若者にも増えています。加えて、海外から来日し、不安定な雇用環境の中で、困難に直面している人たちにも、出会うことが増えてきました。

わたしたちの生きているこの国の社会は、実際に武器を使った戦いの中で命が危機にさらされている、例えばシリアなどの中東やアフリカの国々のような意味でのいのちの危機に直面はしていませんが、経済的にある程度安定し政治もある意味で安定している中で、しかし全く異なる状況で命が危機に瀕しています。

教皇ヨハネ・パウロ2世は、「いのちの福音」の中で、次のように述べられました。
「教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への『よい知らせ』として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません」(1)

その上で、「神の子が受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた」ことにより、神は「すべての人格には比類のない価値があることを人類に啓示し」たと教皇ヨハネ・パウロ2世は言います。

「人間の尊厳と生命に対するすべての脅威について無関心でいるわけにはいきません」と指摘する教皇は、人間のいのちへの脅威が、「神の子の受肉が救いをもたらすという信仰の根底に影響を及ぼさずにはおかないのです」と警鐘を鳴らされます。

信仰に生きているわたしたちは、命を危機にさらす戦争や紛争、政治的な判断や行動に対して、命を守るようにとの立場からしばしば声を上げています。

しかし今わたしたちは、社会における命に対する価値観それ自体が、人間のいのちに対する脅威となりつつあることを実感しながら、それを守ろうとしなければならないときに生きていると感じます。命を守るための戦いの中に、わたしたちは信仰者として生きています。

今年の平和旬間に当たっての談話の中で、司教協議会会長の高見大司教は、教皇フランシスコの言葉を引用しながら、次のように述べています。

『教皇フランシスコによると、「すべての人の全人的発展」とは、諸国民の間に経済格差や排除がないこと、社会がだれ一人排除されず、だれもが参加できる開かれたものであること、人間の成長発展になくてはならない経済、文化、家庭生活、宗教などが保障されること、個人が自由であると同時に共同体の一員であること、一人ひとりに神が現存されることなどを意味します。平和は、この「すべての人の全人的な発展の実り」として生まれるのです(使徒的勧告『福音の喜び』219)」

『すべての人の全人的発展』は、ただ単に経済的な裕福さを勝ち得ることではなく、それぞれに与えられた命という賜物を、すべての人が十全に生きていくことができるような社会を実現することです。

教皇フランシスコがしばしば強調されるように、誰ひとりとして排除されず、互いに支え合い関心を持ち続ける社会を実現するためには、一人ひとりの命が、その始まりから終わりまで、例外なく大切にされ守られる社会を実現していかなくてはなりません。

私たち信仰者は、この社会にあって、対立ではなく生きる希望を生み出す存在でありたいと思います。排除ではなく、支え合う喜びと安心を生み出す存在でありたいと思います。死をもたらす文化ではなく、命を豊かに育む文化を開花させたいと思います。
人類家族の善と幸福を望んでおられる御父の使者、真のあかし人となれる「平和の作り手」となることができるように、聖霊の導きを祈り続けましょう。