大司教

聖霊降臨の主日、合同堅信式(東京カテドラル)

2019年06月14日

聖霊降臨の主日(6/9)の午後2時半、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、東京教区の合同堅信式が行われました。

毎年、それぞれの小教区で堅信式を定期的に行う大きな共同体もいくつかありますし、または司教訪問の際に堅信式をする小教区もありますが、それではすべてを年内にカバーできないので、こういった合同堅信式も大切です。

とりわけ、教区はその司教とともに歩みをともにする一つの共同体なのですが、その「ひとつであること」を感じる機会はそれほど多くはありません。どうしても、一人ひとりが所属する小教区共同体を基準に教会を考えますし、それは当然です。しかし同時に、教区としての共同体の意識は重要ですし、その意識はひいては教皇様を牧者とする普遍教会の共同体の意識を持つためにも、重要です。わたしたちは一緒になって、時の流れの中を旅し続ける、神の民だからです。

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今年は、22の小教区から168名の方が、合同堅信式に参加してくださいました。昨年は、わたしひとりですべての堅信を授けた結果、ミサの終了が夕方5時を遙かに過ぎることになってしまいました。遠方から来られる方も少なくありませんので、今年は、私と一緒に、堅信を授ける権能を委任した、関口教会と韓人教会の両主任司祭に、一緒に手伝っていただくことにいたしました。2時半に始まったミサは、4時半には終えることができました。

多くの神父様が共同司式に参加してくださり、今年からの式典係(小池、江部、高田神父様方)に従い、堅信前の按手の祈りでは、共同司式司祭が一列に並び、手を差し伸べて聖霊の助力を祈りました。なかなかの壮観ではなかったかと思います。

堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。それぞれの心の内に秘めた思いはわかりませんが、それに関わらず、聖霊の力をもってわたしたちをご自分の考えのように使われるのは、主ご自身であることを忘れずにいましょう。

以下、ミサ説教の原稿ですが、ミサ中には少し変更してお話ししています。 

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この世界で、与えられたいのちをより良く生きていくために必要なことは、いったいなんでしょうか。

人ぞれぞれに思うところもあるでしょうし、それぞれの置かれた事情も異なりますから、そこには様々な答えがあることでしょう。わたしは、与えられたいのちをより良く生きていくために必要なことの一つは、未来への希望であると思っています。

何年も前に訪問したアフリカの難民キャンプで、キャンプのリーダーに、「何が必要か」と尋ねたとき、彼は「俺たちは世界中から忘れられた。まだここにいることを、皆に知らせてくれ」と訴えました。食べるものも住むところも不足し、着るものさえも不足している。ないないづくしの困難の中で彼が真っ先に訴えたのは、皆から忘れ去られることへの絶望でした。

このとき、人が生きていくためには、もちろん衣食住がそろっていることが不可欠だけれど、それ以上に、人とのつながりの中で、将来への希望を見いだすことが大切なのだと知りました。

希望のない世界で、いのちを豊かに生きることには、大きな困難がつきまといます。いのちの大切さを訴えるわたしたち教会は、生きていくための希望を失っている人たちに、なんとかその希望をもたらしていきたい。希望を生み出す社会を生み出していきたい。そもそもわたしたち教会の共同体が、生きる希望を見いだす場でありたい。そう思います。

復活祭のスリランカでの事件や、先日のカリタス小学校での事件のように、大切な人間のいのちが、暴力的に奪われる事件が相次ぎました。亡くなられた方々の永遠の安息を祈るとともに、残された方々の上に神様の慈しみ深いいやしの手が差し伸べられるように、心から祈りたいと思います。

その上で、あらためて、神から与えられたいのちの尊厳が守られ、賜物である命が始めから終わりまで守られるようにと、わたしたち教会は主張します。同時に、暴力的な犯罪に手を染めてしまったを犯人も含めて、すべての人に生きる希望が生み出されるように、希望に満ちあふれた社会を生み出していくことができるように、務めていきたいとも思います。

さて、五旬祭の日に、弟子たちは一つになって集まっていたと、第一朗読に記されていました。そこには共同体として一致している弟子たちの姿が描かれています。人々を恐れて隠れてしまうというほどに消極的だった弟子たちは、聖霊を受けることによって、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と記されています。
この弟子たちの様子を目撃した人々の言葉にこうあります。「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。
すなわち弟子たちは聖霊に満たされることによって、神の業を語り始めたのだけれど、それは人々が理解できる言葉であったということです。

堅信の秘跡を受ける信仰者は、大人の信徒としての道を歩み始めます。大人の信仰には、与えられた賜物に応えていく責任が伴います。その責任とは、主イエス御自身が弟子たちを通じて私たちに与えられている、福音宣教の命令です。大人の信徒の責任は、派遣されて出た社会の現実の中で、人々が理解できる言葉で福音を語ることであります。いや、言葉以上に、わたしたちの生きる姿勢で、福音を目に見えるものとしているかであります。

わたしたちは、自分の生きる姿を通じて、福音をあかしいたします。それがわたしたちの福音宣教です。わたしたちはイエスのいつくしみを表すような生き方をしているでしょうか。いのちを大切にするような生き方をしているでしょうか。いのちを生きる希望に満たされているでしょうか。

わたしたちは、ほかの方々との関わりの中で、福音をあかしいたします。それがわたしたちの福音宣教です。忘れ去られる人のいないように、手を差し伸べようとしているでしょうか。人間関係の中で、希望を生み出しているでしょうか。

わたしたちは、愛の奉仕の業を行うことで、福音をあかしいたします。それがわたしたちの福音宣教です。わたしたちは、困難に直面する人たちの存在に気がついているでしょうか。必要な助け手をなり得ているでしょうか。愛において希望を生み出しているでしょうか。

本日の第二の朗読、ローマの教会への手紙でパウロは、霊の望むところと、肉の望むところは相反しているのだ。私たちは霊の導きに従って神の子となり生かされるのだ、と教えます。

肉の望むところ、すなわちわたしたちが実際に生きているこの世界が大切だ、大事なのだと教えるところにしたがっていくることです。残念ながら、わたしたちが生きているこの世界は、完全なところではありません。悲しみや恐れを生じさせ、いのちを奪うことさえ許してしまうような世界です。

それに対してパウロは、霊にしたがって生きる、すなわち神の霊によって導かれ、神の望まれるような生き方をするときに、わたしたちは神の子となり、イエスと同じ相続人となるのだと教えます。

イエスご自身の人生は、他者のために自らを犠牲にする人生でありました。わたしたちはそのイエスと同じ相続人となろうとするのですから、イエスとおなじように、他者への犠牲のうちに生きようとするのです。

わたしたちは相続人ですから、イエスとおなじようにいのちを生きる希望を告げしらせるのです。

わたしたちは相続人ですから、悲しむ人へ慰めをもたらし、すべての人が神に愛される大切な存在であることを、言葉と行いで示すのです。

一人ひとりの能力には限界があります。私たちはひとりでは完璧にはなることができません。でも私たちには互いを支え合う信仰の共同体があります。そしてなによりも、私たちを支え導く聖霊の照らしがあります。「上知、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬の七つの賜物が、聖霊によって与えられます。聖霊の導きに信頼しながら、そして共同体の支えに力づけられながら、勇気を持って、自らの言葉と行いで、希望を掲げてまいりましょう。

「司教の日記」2019年6月11日より)