教区の歴史
2017年東京カテドラル献堂記念ミサ
2017年12月08日
説教
今日の第一朗読と第二朗読、及び、福音から、ご一緒に、神様のみことばと主の福音のみことばを味わってみたいと思います。
第二朗読は、エフェソ書です。この中で、わたくしが、改めて、強く心に感じました言葉は、次の箇所です。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1・4)
天地創造の前から、神はわたしたちをすでに知っていて、わたしたちをお選びになった、と言っています。人間は、誰しも、「わたしは、どうして、この世に来たのか。何のために生きているのか。そして、どこに行くのか」という、非常に大切な問いを持ちます。
天地万物を造られる前に、神はわたしたちを、すでにお選びになったという言葉は、驚くべきみことばなのですが、わたしたちは、そのような驚くべき信仰をしっかりと持っているでしょうか。神はわたしたちを聖なる者、汚れのない者にしようと、お望みになったのであります。
自分の今の状態はどうでしょうか。聖なる者、汚れのない者と言うことができるでしょうか。とても、そうであると言うことはできません。
わたしたちは日々「主の祈り」を唱え、「わたしたちを誘惑におちいらせず 悪からお救いください」と祈っています。
悪、あるいは罪から免れますように、罪に染まらないようにと、わたしたちは願い、祈っています。
神の創った人間とこの世界はすべてはなはだよい世界であるはずなのに、どうして、罪、あるいは悪というものが、人間と世界のなかにあるのか。あるいは、この世界にあるのでしょうか。それは、深い謎であり神秘であると思います。
創世記は、大変大切な教えであり、興味深い教えです。
創世記は、いつごろ、どのようにして、編さんされたのでしょうか。すでに、イスラエルの民は、さまざまな現実、胸を引き裂くような、辛い、悲しい、酷い悪の現実を、十分に見聞きしていたのでしょう。創世記の中ですでに人が人を殺したり、人を傷つけたりします。
男性と女性の関係も、必ずしも、うまくいかない。男性と女性を造られたときに、お互いの存在を、大変大きな喜びであり恵みであると思った。しかし、途中で関係がよじれてしまう。
この世界、この自然も同じで、神の恵み、人間を養い、育てるために、本当に、優しく、温かい環境であったはずなのに、人間を苦しめ、痛めつける環境となってしまった。どうしてだろうか。
彼らはこの謎を解こうと考えたのかもしれません。
そこで、今日、改めて、耳に入った言葉、創世記3章14節の「呪われるものとなった」という言葉に注目したいと思います。
何が、誰が呪われる者となったかというと、蛇です。そして、呪われた蛇と関連して、わたしたち、人間も、その子孫も、そして、この大自然も、調和が失われた状態になってしまった、と創世記は述べています。
あわれみ深い、主なる神は、この自然と人間をあがない、元のような状態に復旧させようと、あるいは、それ以上に善い、聖なる状態、神の幸福に与る状態にしようと、お望みになり、主イエス・キリストをお遣わしになりました。そこに、わたしたちの信仰の中心があります。
その、主イエス・キリストに、最もよく協力した女性として、聖母マリア、今日の福音では、ナザレに住んでいた、ひとりのおとめ、マリアという人であったと、ルカの福音が告げています。
ガブリエルという天使から、「救い主の母となる」というお告げを受けて、「そのようなことがありえるだろうか。それは、とんでもないことではないか」と思ったが、「神にできないことは何一つない」と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)とお答えになった。
最初の女性、エバの不信仰を帳消しにし、神と人間とのふさわしい関係を再構築し、もっと素晴らしいものにするために、イエス・キリストは来られましたが、イエスの誕生に協力したおとめが、マリアであったと、聖書は告げています。
神がわたしたちを大切に思い、わたしたちをご自分のもとに招いておられるということを、信じるということは、どのようなことだろうか。わたしたちも心のどこかで、疑いと不安が忍び寄ってこないだろうか。「どうして、このようなことがあるのだろうか。わたしたちを、どうして、このようなひどい目に合わせるのか」というような思いが兆すことはないだろうか。
現在、この世界には、さまざまな矛盾、不条理が存在し、暴力がまん延しております。今日、無原罪の聖マリアの日を迎え、神が、すべての人を救い、すべての人を聖なる者、けがれのない者にしようと望んでおられるという、聖書の言葉を、改めて、深く心に刻みましょう。
わたしたちは現代の荒れ野のような状態にあるこの大都市とその周囲に住んでいます。カトリック東京教区は、信仰、希望のうちに、神からの愛を深く受け止めることで、神への愛、隣人への愛を育み、強めていただけますよう、聖母に祈りをお献げいたしましょう。